「笑顔でお別れしたかったんですけど……。
無理、みたいです。 ぐすっ……」
5月某日、夜の福岡、九州ドーム。
リングに上がった石川涼美が声を詰まらせると、超満員の観客は暖かい拍手でそれを補った。
WRERAの選手たち、中でも彼女と死闘を繰りひろげた選手たちが代表して彼女に花束を渡し、ワールド女子の南や十六夜もそれに加わる。
申し分のない立派な引退セレモニー。
しかし、そのプロデュースの一端を担った WRERAのクラリッジ成瀬は、満足の笑みではなく不満の渋面を作っていた。
「……やっぱ、無理やったんかなぁ。
そりゃあ全員は無い思うとったけど、何人かは来るんやないかと期待したのになぁ……」
このステージに欠けた点睛が、石川が長年所属していたスレイヤー・レスリングの選手たちであることは明らかだった。
それでも、興行も引退式も大成功という事実をもって、ここは良しとすべきか……と成瀬が自分を納得させかかったところで、それは起きた。 いや、襲ってきた。
「オーッホッホッホ! 引退セレモニーとやら、終わらせるにはまだ早いですわよ!」
「わ、わぁっ!? なんや!?」
謎の高笑いと会場の一角にともされたスポットライト。
自分の演出には無かったサプライズイベント発生に成瀬は慌てて視線を送り、半ば想像していた通りの顔を見つけて蒼白になった。
「……市ヶ谷先輩!? な、なにをするんや! 全部ぶち壊す気かいっ!?」
WRERAに入って日の浅い成瀬だが、市ヶ谷の傍若無人な武勇伝は、見る聞くだけでなく、すでに何回か身をもって味わっている。
目立ちたがりの市ヶ谷が、他人の引退式の「乗っ取り」に出ても不思議は無い──成瀬がそう考えても、それこそ不思議は無かった。
同様の考えは、観客たちの多くも抱き、それゆえに会場はざわつき、一部ではブーイングの準備すら始められたのだったが、
「私という絶対の主役にも、盛り上げ役としての脇役は必要なもの。
いわんや二流の主役のカーテンコールには……多数の脇役が必須ですのよ!」
市ヶ谷の人差し指が示した先、リングにつながる花道の一本に多数のライトが点り、今まさにそこを走る二台の白いリムジンを浮かび上がらせた。
リンカーンのロングストレッチリムジン──リング脇で止まったその扉が開くと、会場中の目が驚きに見開かれた。 誰よりも、龍子、そして石川の目が。
「亜里沙ちゃん、美咲ちゃん、美幸ちゃん、千春ちゃん……他の、みんなも……!?」
「み、みんな、どうやってここへ!? まさか、あっちの興行すっぽかして……」
「オーッホッホッホ! 愚かしいですわね、龍子!
あちらを立てればこちらが立たず、などというのは凡才かつ貧乏人の発想。
このビューティ市ヶ谷の柔軟な発想力と実行力、そしてそれらを支える財力があれば、不可能という文字は辞書どころかネットの検索結果の中にも──」
「みんな、来てくれたんだね! ありがと〜!!」
石川は、居並ぶスレイヤー・レスリングの選手たちの元へ、いきなりのプランチャを敢行した。
慌てて受け止めるかつての仲間たちの手から花束が散り、色とりどりの花が宙に舞う。
その中で仲間たちの笑顔と涙に囲まれた石川の表情は、幸せ、という言葉が何より似つかわしいものに見えた。
「…………。 まったく、人の話は最後まで聞くものでしょうに。
一体誰のおかげで、この大団円を迎えられたと思っているのかしら?」
「──ウフフッ。 石川さんの代わりに、私からお礼を言わせていただきますわ」
あら、と意外そうに美眉を寄せた市ヶ谷の視線に、しなやかな歩みでその隣に並んだフレイア鏡が、優雅な会釈を返した。
「私たち皆がこの場にいられるのは、全てあなたのお陰ですものね」
フレイア鏡の「アテ」「奥の手」こそ、ビューティ市ヶ谷の存在だった。
性格的問題はともかく、市ヶ谷財閥をバックに持つ彼女の発想力と実行力と財力は、確かに凡人の及ぶところではない。
もっとも、特に親しくもなければ弱みを握られているわけでもない鏡の一方的なお願いに市ヶ谷が耳を貸してくれる確率は、非常に低かった。
それゆえに鏡は、何らかの取引きの可能性はもちろん、場合によっては彼女得意の“術”の使用も視野に入れていたのだったが……
「率直に申し上げて、あれほど簡単に OKしてもらえるとは思いませんでしたわ。
全員が乗れるチャーター機での往復はもちろん、あのようなリムジンまで。
失礼ながら、どういう風の吹き回しですの?」
「フゥ。 どうもあなた方は、私という偉大なる存在を誤解しておりますわね。
貴き者が下々の者に手を差し伸べるのは、崇高なる義務というもの。
私はただ、神に最も近い存在として、その義務と責任を果たしただけですのよ。
オーッホッホッホ!」
この日何度目かの市ヶ谷の高笑いにも、いまさら鏡は動じない。
しかし、その市ヶ谷が高笑いをおさめ、小さな溜め息とともに石川たちの輪に向けた瞳の色に気付くと、鏡は激しく動揺した。
「……そう。 神に最も近いこの私でも、時の流れだけは戻せませんものね……」
鏡が気付いた市ヶ谷の瞳の色。
その色には、寂寥という名が付いていたのである。
「──鏡さん?」
「……えっ?」
「なにをボーッとしてますの? あなたらしくもありませんわね。
もうすぐ、引退式は終わりますわよ。 石川さんの所へ行かなくて良いんですの?」
「ああ……そうですわね。 それでしたら、お気になさらずとも大丈夫ですわ。
私は、そういうのはガラではありませんもの。 ウフフッ?」
自分のペースを取り戻した鏡がリングの方を見下ろすと、少し不安げにきょろきょろと左右を見渡す石川が目に入った。
何事かと首を傾げた鏡が、石川が自分のことを探していたのだと知ったのは、こちらに気付いた石川が、無邪気な笑顔を取り戻して、子供のように手を振った時であった。
「あ、いたいた〜! やっほ〜っ! 鏡さ〜ん!」
本当に、自分のガラではない。
そう思いながら、鏡は小さく手を振り返して、微笑んだのであった。 *c1
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