まばゆいばかりの日差しが町を包み込んだ、その日。
町外れの一角に居を構えるジムには、しばらくぶりの喧騒が戻ってきていた。
「それじゃ、京那の奴はめでたくお役御免になったんスね!?」
タオルと一緒に先輩が渡した話を、真田は明るい表情で受け取った。 後輩の練習生と並んでサンドバッグ相手に散らせていた汗を、元気一杯に拭い取る。
「うむ。 京那がというより、プロジェクト自体を打ち切るということらしいがな」
柳生は、真田に頷いて見せてから、隣の練習生に最後のタオルを渡した。
まだリハビリとしてではあるが、入院していた練習生たちは、今日から揃ってトレーニングに復帰している。
あんな目に遭いながら、彼女たちは一人も欠けることなく、笑顔で戻ってきてくれた。
喜ばしいその事実と、真田に伝える話の内容が、時代がかった柳生の言葉にも、いつになく弾んだ調子を与えていた。
「京那の過激なやり口には、内部でも相当に批判が出ていたようだ。 加えて、本家を本家とも思わぬ扱いをする分家たちに不満を持つ者も多く、それらが、京那の失敗で一気に噴出したのだ。 ──と、あの御仁は言っていたよ」
つい先ほどまで話していた人物の、丁重かつ礼を尽くした態度に、柳生は好感を持っていた。
寿家の執事長と名乗ったその老人は、謝罪と今後の補償、そしてなにより感謝の意を伝えなければという次期当主たる女性の命で、本家から遣わされて来たのだった。
「次期当主というのは、零の義理の姉にあたる女性だそうだ。 これは私も友人から聞いていた話だが、京那は零を従わせるために、零のタッグパートナーでもある親友とその次期当主の二人を、半ば軟禁状態に置いていたらしい。 プロジェクトに反対および妨害した、との理由でな」
「じ、次期当主を軟禁って……まあ、あの女らしいっスけど……」
絶句の中にも苦笑を見せる真田。 柳生も釣られて苦笑を返した。
「まったくだな。 その発想と、それだけやっても反対派を抑えていた手腕は、大したものだと言えなくもないが……」
苦笑を限界まで深めてから、ふと何かを思い出したかのように、柳生はその笑みを仕舞い込んだ。
「──実のところ私は、京那の考えに共感できる部分もあると思っている」
「せ、先輩!?」
「無論、やり方は決して許せるものではない。 ただな、一時期の勢いを失った今のプロレス界には、絶対的なエースこそ必要だ、という点だけは、理解できなくもないのだよ」
「柳生先輩……」
尊敬する先輩の名を、感慨深げに呟いた真田は、
「それはちょっと違うんじゃないスかね?」
と、あっさりばっさり切り落として、柳生の精悍な顔を珍妙にしかめさせた。
「ほ、ほぉ。 それは、どういう……」
「だって、そんなもん、一人だけいたって意味ないじゃないスか」
何を当たり前なとでも言いたげに、真田はきょとんとした目で柳生を見つめた。
「プロレスは、技を受けてくれる相手がいてこそですもん。 一人じゃ駄目駄目に決まってるっスよ」
何気ない言葉に胸をつかれて、柳生は真田を見やった。
特に考えなしとも見える後輩と向かい合ったその表情に、苦笑が呼び戻されてくる。
「そうだな。 お前の言う通りだ」
光に満ちた窓の外を見上げる。
「一人では、意味が無いな」
高く澄んだ青色の中に溶けて、苦笑は穏やかな笑顔に変わった。
防波堤沿いの道を、潮の香りをまとわせた白い風が流れていく。
後ろになびいた髪を少し気にしながら、千里は携帯電話に届いたメールを読み終えた。
「伊達さん、なんて?」
腰まである防波堤に両手をついて待ってくれていた早瀬の声に、自分もその隣へと足を進めていく。
「今から復帰会見だそうです。 人前で話すのなんてイヤなのに、とか、今すぐ逃げたい、とか書かれてました」
「あはは。 伊達さんほどの人だと、そういうのあるから大変よねー」
「あと、誰と戦ってみたいかという質問があるから、早瀬さんの名前を出すね、ともありましたよ」
「うっ」
いきなりの名指しにプレッシャーを感じたのか、海を眺める早瀬の笑顔が引きつった。
そ知らぬ体で千里も防波堤に手をかけて、その向こうに輝く蒼い海を見つめた。
しばしの間、小さく打ちよせる波の音に二人で身を任せていると、会話は自然と先ほどまでの続きへと巻き戻っていく。
「それで、早瀬さんの団体は大丈夫なんですね?」
「うん」
一つ頷いてから、早瀬はくるりと反転した。
海原に背を向けてコンクリートに寄りかかると、ちょうど吹いた海風が、二つに束ねた長い髪を前へとたなびかせた。
「那月ちゃんがね、連絡くれたの。 京那が──っていうより寿家が、約束を守ってくれたみたい。 お金の心配も無くなったし、入院してたみんなももうすぐ全員戻ってこれるって。 興行が再開できる日も近いんじゃないかな」
「それは、なによりですね」
「うん、これも千里ちゃんのおかげだよ。 ありがと。 あの零さんに勝てるなんて、正直信じられなかったもん」
「私一人の力ではありません。 皆さんがいてくれたからですよ。 それに、零はあの時……」
「あの時?」
「──いえ。 勝ったのは、当然の結果です。 結局、守るものという弱さを持っていたあの人に、私が負けるわけがないんです」
「……うわぁ」
本当に当然だと思っている、少なくともそう聞こえる千里の声に、早瀬は頭上の青空を仰いだ。
どこまでが本気でどこまでが冗談か、やっぱり千里は奥が深すぎて、よくわからない。
遥か蒼穹に浮かんだ、一筋の飛行機雲の跡を追いかけて、
「──ねえ。 私、何か教えたかなぁ?」
唐突な問いに顔を向けた千里の前で、早瀬は天を見上げたまま、続きを口にした。
「あの時、私が教えたって言ってくれたよね。 本当の強さが何なのか……って。 でも、私が教えたのは防御の技ぐらいで、そんなの、何も……」
「早瀬さん」
「はい?」
「本当に、バカなんですね」
「ふえっ!?」
白黒させた目を下界に戻した早瀬の隣に、もう千里はいなかった。
すたすたとアスファルトを遠ざかる千里の背を、慌てて早瀬が追いかける。
「待って! 千里ちゃん、待ってってば!」
と言ってみたところ、千里は素直に足を止めた。 目線は向こうに、背はこちらに向けたままで、
「早瀬さんは、これからどうするんですか?」
「え? どうする……って?」
「団体のことは解決したわけです。 早瀬さんは、どうするんですか?」
「そ、それはもちろん、団体に戻って……」
団体に戻って、ブランクを取り戻して、リングに復帰する。 そう告げようとした寸前で口をつぐむと、早瀬は一度、深く息を吸った。
「──あのね。 謝ろうと、思ってるの」
再び開いた口からは、ずっと前から考えていたことが、すんなりと出てきてくれた。
「みんなに、全部話して、謝るの。 許してくれないかもしれないけど、許してくれるまで謝って。 もしも許してくれたら、また一緒にやっていきたいって思ってるんだ」
失くしたものは、還ってこないのかもしれない。
けれど、新しいものを手に入れることはできる。
信頼も。 友情も。 そして──
「そうですか」
千里はもう一度、海を見ていた。
そよ風が髪に触れるたびに、きらきらと光り輝く小さな波。
それを眩しげに見つめていた切れ長の瞳が、静かに閉じられていく。
「……プロレスラーには、今からでもなれますか?」
早瀬の目が、大きく見開かれた。 驚きと、そしてもう一つの感情で。
「う、うん! もちろん! 千里ちゃんなら、私──」
弾ませた早瀬の胸と言葉に、不意に別の感情、あるいは理性が割り込んだ。
「──どこの団体だって一発合格だと思う! 新女でも、WARSでも、伊達さんのところや柳生さんのところだって、きっと引く手あまたの大歓迎だよ!」
「……早瀬さん」
「は、はい?」
「本っ当に、バカなんですかっ?」
「あ、あうぅぅ……」
今度は、早瀬にもよくわかっていた。 胸の前で指を合わせて、小さく縮こまる。
「でも……でもね。 千里ちゃん……いいの? うちの団体、小さいし、お給料も安いんだよ? 千里ちゃんのこと考えたら、私はやっぱり……」
「ひょっとして、迷惑、ですか?」
「ち、違うよ! 千里ちゃんが来てくれたら、みんなもきっと喜んでくれるけど! 第一、私が一番うれしいもん!」
「無理にフォローをする必要は、ありませんよ。 私は、自分が他人に好かれる人間だとは、思っていませんから……」
「そんなことないっ!!」
怒りにも似た激しい感情が、千里の耳を打った。
はっと目を開いてこちらを向いた千里の顔を、早瀬の瞳がくっきりと映し出している。
「そんなこと……ないからね」
翳りのない瞳で真っ直ぐに見つめられて、千里はほんの少しだけ視線を逸らした。
「あ、ありがとうございます。 その──うれしい、です。 それから……」
出会った日の朝と同じように。 千里の頬はほんのりと紅く染まり、気付いた早瀬の表情を、微笑みへと和らげた。
「……それから?」
「私も、その……早瀬さんと一緒が……いいかな、と。 だ、だから、これからも、お世話になります!」
真っ赤になった頬と、少し乱暴な口調。
それらが伝えてくれた千里の真摯な想いに、早瀬は心からうれしくなった。
だから思わず、
「うん、これからもよろしくね! ちーちゃん!」
と言い切ってしまってから、はたと気付いた。
上目遣いで口を押さえて、おそるおそる付け加える。
「えと……じゃなかった、千里ちゃん……」
「──いいですよ」
「え?」
「ちーちゃんで、いいです」
潮風が優しく二人の間を吹き抜けて、その先で光が揺れた。
早瀬が、顔をほころばせる。
まばゆいばかりの光の中で、千里の表情もゆっくりと変わっていき──
それに合わせて、早瀬ももう一度、表情を変えた。
どんな天使にも負けない、とびきりの笑顔に。
早瀬葵。
そして、桜井千里。
二人のレスラーの風変わりな師弟、いや、師妹関係は、この日から始まったのである。
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