黒いつむじ風が走る。
飛び出したのは、零だった。
戦いが始まれば、相手が誰かも、抱えている想いも、全て消えてしまう。 数メートルの間合いを瞬時に削って、ただ自分が倒すべき敵の前に迫る。
いや──今回だけは、殺すべき敵の前に。
蹴りの間合いに踏み込む直前で、さらに地を蹴って加速した。 避けようも無い距離から、一直線に漆黒の矢を放つ。
風を従えた右の拳が千里に届き、鈍く重い衝撃が伝わった。
拳ではなく、自らの頭蓋から。
「なっ……!」
それは京那か、あるいは零自身の驚愕か。
思わずバックステップを使った零の前で、彼女の初撃にいとも容易くカウンターの掌底を合わせた千里は、元の位置で構えたままだ。
正確には構えも足の配置もわずかに変わっていたが、いずれにせよ追撃の意志は見せてこない。
「やる……ね」
零は小刻みに身体を揺らし始めた。
軽くステップを踏んで、再び懐に──互いの死地へと飛び込む。
刹那の間に、左右合わせて拳を五撃、いや、六撃。
人間離れした速度の連打でも、その一発一発が必殺の威力を秘めることには変わりない。 喰らえばもちろん、ガードしただけでも吹き飛び、あるいは動きが止まって、零の繰り出す拳の暴風に晒されることになる。
それら機関銃のごとき猛攻を──全て千里は躱し切っていた。
「馬鹿な!?」
今度こそはっきりと京那が上げた叫びに、零も動いた。
左右に足を使い、フェイントを織り交ぜ、まずは軽い一発を当てる──と見せかけて踏み込み、大気すら揺るがすブローを、至近距離から千里の右脇腹へと送り込んだ。
それを、跳ね上がった左膝が斜め下から弾くとは。
なおも突進を試みた拳は、しかし反転した身体に巻き込まれて殺傷力を失った。 対して零を襲ったのは、回転した千里の返刃──後ろ回し蹴り。
唸りを上げての大技はさすがに残した腕のガードで防がれるが、その威力に顔をしかめた零は反撃を断念、後退を余儀なくされた。
「何よ……あの娘。 どういうこと? いったい、何が……っ」
手にした鉄扇が落下していくことにも気付かず、京那は虚ろに呟いた。
この短期間で柳生たちから何を学んだというのか。 千里の動きは、かつて零に敗れ去った時とは全くの別物だった。
しかし、京那を真に驚かせたのはその点ですらない。
所詮、千里は素人だ。 その急成長を鑑みてもなお、パワーもスピードもテクニックも、場数や駆け引きまでも、零の方が圧倒的に上回っている。
この場の戦いを見た上でも、間違いなくそうだと言える自信と確信が、京那にはあった。
「なのに……なぜよ? なぜ、零の攻撃が当たらないの? 見切れるはずは無い……そんなスピードじゃないはずよ。 それを……」
「──見切れないなら、読み切るまでです」
千里の静かな声は、その何倍もの衝撃を持って京那の鼓膜を震わせた。
弾かれたように目を剥いた京那の前で、こちらに背を向けた千里が、零と対峙している。
「読む、ですって? どこの超能力者よ……ありえないわ……!」
「読めます」
その言葉を置き去りに、千里は横へ跳んだ。
もといた場所を、質量すら持った風が吹き荒れた。 放った蹴りの威力をそのまま推進力に換えて、零が千里に追いすがる。
決して逃さぬと語る零の瞳が、千里の再跳躍を止めたのか。 千里の視界一杯に、空間を引き裂く凄まじい拳が広がった。
そのまま──出る。
突き出される拳のさらに奥へと上体ごとねじ込んで、恐るべき風鳴りを頭上に感じつつ、千里の脚が垂直に跳ね上がった。
下から上へと走った雷光は咄嗟に避けた顎を外れ、灼熱の摩擦を零の頬に感じさせた。
零と千里、二人の視線が上下に交差し、千里の唇が動く。
「前の闘いで、わかったんです。 あなたの技は──ただ相手を倒すためのものだから」
零は気圧されたように退がった。 さらに一度の跳躍で、距離を伸ばす。
その眼前へと、夢幻の如くに迫った千里の足捌き。
思わず放った左ジャブは威力無くガードされ、それでも斜め上へと千里が跳ね上げた変形のミドルキックを余裕で避けきって、零は好機と前に出る。
「──今までの私と、同じだから!!」
避けたはずの蹴りが一瞬で跳ね戻って、今度こそ零を、そのこめかみを打ち抜いた。
大きくよろめいた零よりも、その掛け蹴りの見事さに、早瀬だけでなく京那までもが目を奪われる。
「あなたたちには、感謝しています!」
ここを先途と決めたか、千里が一気に攻めに出る。
迎え撃つ零の目も、死んではいない。
ノーモーションから、まさかの浴びせ蹴り──読めるはずもない大技が千里を急襲した。
死神の鎌を地を這うようにして躱し、身体の流れるままに千里は斜め前方へと跳んで、手をついて前転した。
間合いが開いたことを感じ取りつつ、零も自らの技に受身をとって、仕切り直しと構えを取った。
よもや、千里が地を蹴って瞬時に跳ね戻ってこようとは──!
「ただ強くなるだけでは、強くはなれない──それを教えてくれたっ!」
風を切る膝蹴りは、先生と呼ぶ伊達遥の教えか、あるいはこれも独学か。
強烈な閃光の槍を、回避もガードも間に合わず顔面に受けて、零は仰け反りながら宙を飛んだ。
自ら飛んで威力を殺していたのか、すぐさま起き上がったのはさすがの一言だが、その表情と呼吸に余裕は一片も無い。
京那にとっては、出来損ないの悪夢としか思えない光景だった。
「何を……何をしているの、零!?」
長い黒髪を掻きむしらんばかりに、京那が叱咤を飛ばした。
「負けなんて許されないのよ!? 相手は素人同然──打撃にこだわる必要だってない! いいからさっさと勝ちなさい!」
京那の指令は絶対なのか。 零は強引に呼吸を整えると、空気が悲鳴を上げる速度で再び打って出た。 千里も応じて前に滑る。
ぎりぎりのアウトレンジから零が放った砲撃の如きワンツーを横に躱して、千里は続く零の下段蹴りまでも読み切った。 戻り際に中段蹴りを合わそうとして、
「だめっ!」
唐突に届いた声と千里の直感は同時だった。
一瞬、いや半瞬の停滞の間に零は全身を沈ませ、這うほどに低く飛び込んでいた。
誘ったミドルこそ来なかったが、結果は変わりない。
軸をずらして肘も膝も届かぬ位置から伸ばされた腕が、奈落へと千里を引き摺りこむべくその脚を刈って──
「今っ!」
鋭い指示が飛んだ矢先に、零の運命は暗転した。
退がった脚を追った身体に上から圧力が掛かり、タックルを切られたと悟った瞬間、床に落ちた顎に重い鉈の一撃が炸裂した。
錐揉み状態で低空を飛び、受身もとれず床で数回転した零は、横倒しの状態でようやく止まった。
千里は、蹴り足を戻しても警戒の構えは解かずに、息を一つ吐いた。
零を見据えたまま、握った右腕を軽く上げる。
その意味を悟って、後方に立つ早瀬も、右手を上げて応えた。
零のタックルをいち早く察したのも、そのタイミングを計ったのも、対処する術を教え込んでくれたのも。
早瀬が自分を助けてくれたと、千里にはわかっていたのだった。
「う……くぅ……」
寿零は、まだ戦おうとしていた。
両手を床につき、揺れる景色の中でどこまでも沈んでいきそうな身体を必死に支える。
茫然自失にあるのだろう、京那からは何の声も掛からない。 それでも彼女は、諦めるわけにはいかないのだった。
「終われない──まだ、負けられない。 違いますか?」
心を読まれた気がして、零は四つん這いの体勢から顔を上げた。
「寿、零。 あなたが懸けたものは、この程度なんですか?」
挑発だ。
他に聞こえようもない言葉は、なのになぜか、まるでエールのように零の胸を打った。
倒れていろとささやく身体をねじ伏せ、必死の形相で膝を持ち上げる零に、千里は言葉を続けた。
「あなたにはまだ……守るべきものが、あるんじゃないですか?」
マモルベキ……モノ?
マモリタイ……モノ。
マモラナケレバナラナイ……モノ──!!
咆哮が──押し殺されていた心が、天を突いた。
凄まじい衝撃波が幾重にも弾け、闇空に浮かぶ部屋が軋み、京那を我に返らせ、早瀬をたじろがせた。
「──私、は! 負けられない、んだっ!!」
屹立して叫ぶ零を中心に、荒れ狂う暴風。
その中で、千里は立っていた。 ただ静かに零だけを見つめ、その叫びを耳にして。
「千歌、お姉さま! 小鳩、ちゃん! 私が……私が、守るんだ──からっ!!」
魂をつんざく絶叫──その終わりは、突然だった。
突如として舞い降りた、静寂。 零の顔が、ゆらり、と正面に戻った。
むしろ隙だらけとさえ見える自然体なのに、それを見た早瀬の心臓は凍りついた。
殺気や闘気によるものではなく、それらが全く感じ取れない、鮮烈なまでの違和感。
同じものを先刻に伊達が感じたとは知らず、しかし視界の端で急速に確信の笑みを取り戻しつつある京那と相まって、早瀬は血がざわめくような不安に襲われ──
「──早瀬さん」
心が、優しく包み込まれた。
明鏡にて止水、でもどこかほんのりと暖かい、千里の声。
「早瀬さんが……教えてくれたんです。 私が本当に欲しかった強さが、何なのかを」
零が、動いた。
千里に何の反応も許さないまま、急速に二人の距離が集束していく。
伊達と同じ運命を、千里もまた辿るのか。
「技も力も、全ては──」
静かな声がぶつかる前に、零の姿が消えた。
まさに神速にして幻妖の拳──サイレントナックルが、為す術なく立ち尽くす千里の側面に、唸りを上げて叩き込まれる。
神速の竜巻に──亀裂が疾った。
下段から跳ね上がった稲妻が、その光さえ置き去りにして、零の側頭部へと吸い込まれていた。
あの時。 斬馬迅を糸口に生み出され、世界で柳生美冬だけが目にした、知覚すらも及ばぬ千里のハイキック。
見開かれたまま時を止めた早瀬の瞳の中で、零が力なく崩れ落ちていく。
全ての操り糸が切れた、マリオネットのように。
「全ては──誰かの心に届いて、初めて輝くものなのだと」
──お姉ちゃんは、ひとりぼっちなんかじゃないよ──
あの雨の日の、淡い微笑み。
そのまぼろしの向こうで、肩越しに振り返った、瞳。
彼女の知る限りこの世で最も美しく輝くその瞳が、早瀬を見つめてくれていた。
「嘘でしょ……そんな。 零……が……?」
よろめいた京那を支えるものは、もう何もなかった。
「この私の……作品が。 こんな、簡単に……?」
終わってしまった、何もかも。
腰が落ち、幼女のように床に座り込む。 両脇についたその右手の先が、何か硬い物に触れた。
──いいえ、まだよ。
どこかで誰かが、そう言った気がした。
握った鉄扇とともに──暗い影が立ち上がる。 親指が小さく動くと、閉じた鉄扇に仕込まれた鋭い刃がせり出した。
声の主は、まだ全てを無かったことにしてしまえるとでも思ったのだろうか。
黒い情念が揺れる瞳は、無防備な早瀬の背を映し出していた。
早瀬にも千里にも気付かれないまま、ゆっくりとその手が振りかぶられる。
忠実なる死の使いが、今──解き放たれた。
天井へ。
仰向けに倒れる投擲者の視界の中で、狙いを外れてシャンデリアの腕木に当たった鉄扇が、同じ軌跡で跳ね戻ってくる。
京那の呼吸が止まり、輝く刃が視界に広がった瞬間、鼓動までも止まった。
恐怖が臨界を超えたのと、床に落ちた後頭部の、どちらが早かったのか。 それは誰にもわからず、ともかく京那は、泡を吹いて失神した。
「……危機、一髪……」
ほっとした声は、早瀬と京那、どちらの危機に対してのものか。
部屋に飛び込むや水面蹴りで京那の足を刈って倒し、その京那に牙を剥いた鉄扇を空中で掴み取った女性は、
「先生!」
「伊達さん!? 大丈夫なんですか?」
千里と早瀬からの驚きと喜びの声に、照れた微笑みで肩をすくめた。
「……鍛えてるから。 ……それに……」
伊達ははにかんだまま、視線を移した。 千里と早瀬も、後に続く。
「……最後の最後で、力を抜いてくれたんだと、思う……」
三つの視線が合わさった先には、意識を失った零の姿があった。
死力を尽くした戦いに敗れ、無念に満ちているはずの横顔。 それは今、穏やかに微笑んでいた。
まるで、楽しい夢を見ている子供のように。
激しかった外の雨は、いつの間にか降り止んでいた。
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