「──次から次へと、千客万来な夜だこと」
戸口に立つ千里に向けた京那の声は、すでに余裕を取り戻していた。
「早瀬さんが来たかと思えば、お次は伊達選手。 まあ、どちらも零が片付けてくれたわけだけど」
伊達の名前に、千里は微かな反応を見せて──それでも何も言わなかった。 代わりに、左足を半歩だけ前へと滑らせる。
「さらにあなたまで登場するとはね。 アンコールの声も、ほどほどにしてもらいたいものだわ」
京那は、鉄扇を左手に移した。 空いた右手が、優雅な動きで腰の後ろへと回される。
「舞台の幕は──もうとっくに降りているのよ!」
引き抜かれた右手から、四筋の銀閃が飛んだ。
投剣か投げ矢かの如く放たれた閉じた鉄扇は、四本のそれぞれがすり抜けられない絶妙な間隔を保ちつつ、風を切り裂いて千里を襲った。
千里は──前に出た。
胸前に飛来した一本を捕捉、手の甲で叩き落すと、強引に作った空間を縫って一直線に京那に迫った。 それを見て、京那の顔が歪む。
笑いの形に。
彼女から見て斜め前方、千里の横合いから追いすがった黒い影は、零だ。 千里が気付くも、既に遅い。
高速移動の中で交錯した、二つの身体。 鈍い音を立てて、片方が大きく吹き飛んだ。
京那の得意げな笑みが、見る見るうちに侮蔑のそれへと変わり──立ったまま残った人影を確認した瞬間、驚愕へとリセットされた。
残ったのは、千里。 壁際まで床を転がったのが、零の方だった。
「千里……ちゃん?」
床にへたり込んだままの早瀬の顔にも瞳にも、信じられないという感情が揺れている。
千里は一瞥で京那を後ろに下がらせると、半ば惚けた早瀬の元へと踵を返した。
「千里ちゃん……私、あの……」
「早瀬さん」
うわ言のような早瀬の呟きは無視して、千里は早瀬の前で歩みを止めた。
「どういたしまして」
えっ、と早瀬が返す間も無く、千里が動いて──
早瀬の目の裏で、星が散った。
──頭を、げんこつで、殴られた。 子供を叱るみたいに、上から、グーで──
星の世界で何とかそこまで理解し終えた時には、
「い……痛ぁぁい! 千里ちゃん、何するの! なんで、いきなり、殴るって!?」
とっても痛かったらしい。
目から星と一緒に涙の粒まで出して、頭を押さえた早瀬が、大声でわめいた。
千里はすでに背を向けていたが、早瀬の抗議の声と視線を受けて、肩越しに振り返った。
一言。
「バカですか、早瀬さんは?」
さすがの早瀬も、我を忘れた。
「ば、バカって、千里ちゃん! いや、私、バカかもしれないけど! だって意味わかんないし! さっきの言葉の意味も! 行動と全然合ってないじゃないの!」
「あなたが、さっき言ったからです」
千里はもう、こちらを向いてはいなかった。
「……私への言葉ではなかったのかもしれません。 でも私は、私への言葉だと受け取りました。 だから、私は──」
もう一度、千里は顔だけを振り向けた。
「私は、思った通りにやっただけです」
こちらを向いた横顔は、どう見ても不機嫌極まりなかった。
なのに。
「ただし、です。 私は、天使なんかじゃありませんよ? 私に言わせれば、早瀬さんの方が──その……。 それをあなたは、軽蔑だとかさよならだとかっ。 まったく人の気も知らないで──っ」
それなのに、必死に照れ隠ししているだけなのだと、わかってしまった。
早瀬には、早瀬だけには、わかってしまうのだ。
千里の強さも、時にはそう見えて強がっているだけの彼女の弱さも、優しさも。 そして何より、けっこう素直じゃないところも。
そう──そんなところだけはとてもよく似ている、“二人”だったから。
「ちー……ちゃん……」
「──お話はまだ続くのかしら。 仲良しさんたち?」
苛立った横槍が、早瀬と千里を同じ方向へと振り向かせた。
こちらは早瀬にも不機嫌そのものとしか見えない顔で、京那が腕を組んでいる。
「仲良しというより、勇敢なナイトとお姫様ね。 さっきのまぐれには驚いたけど、きっとあれも早瀬さんを守りたいという一心から。 そう、さしずめ──」
千里の眉が、ぴくりと震えた。 気づかずに京那が続ける。
「守るものがあるから強くなれた、といったところかしら?」
この時の千里の表情こそ、見ものだった。
「守るものが、あるから──?」
呟いた千里の纏った不穏極まりない空気に、彼女の『一番嫌いな弱い考え方』という言葉を思い出した早瀬は戦慄した──はずが、なぜか思わず噴き出してしまった。 京那は京那で、
「な、なにか気に障ることを言ったかしら。 だったら、その、ごめんなさいね」
思わず鉄扇を広げて、隠れるように身を引いていた。
「と、ともかく、千里さんは何の用なの? 早瀬さんを助けに来たのなら、そのまま連れ帰っていいわよ。 私たちは、これ以上何もしないから」
「……ありがたい申し出ですね。 ですが」
「ですが?」
「それでは、駄目ですね」
「駄目ですって?」
眉をひそめた京那は、千里が早瀬のミッション達成を知らないことに気付いた。
であれば、と経緯を説明してあげようとして、
「零を倒せる人を連れてくれば、早瀬さんの団体に多額の寄付をすること」
いきなり指を折り始めた千里に、先を越されてしまった。
「そ、そうだったわね。 だけど、その話はもう──」
「さらに、柳生さんたちの団体や、先生──伊達さんにも、十分な補償と謝罪をすること」
挟んだ言葉を無視されて、京那の不機嫌は一気に頂点に達した。
千里は我関せずの様子で、指の数を加える。
「さらに、もう一つ──寿零を、解放すること」
驚きの気配が、たちまち部屋を満たした。
早瀬と、京那と、すでに立ち上がって成り行きを見つめる零が、その出どころだった。
「これらの条件は、一度きりでかまいません」
驚きが生んだ沈黙の中で、千里は一人、言葉を続けた。
「私が今この場で、零を倒せた場合のみ。 それで、いかがでしょうか」
京那に向けたその表情は、声と同じで、何の気負いも無く澄み切っていた。
「いかがでしょうか、ですって……っ?」
京那の全身は、はた目にもわかる怒りに震えていた。
「勝手に増やした条件で、零と戦わせろ? おまけに、今ここで倒してみせる? 一回のまぐれで、随分と調子に乗ったものね。 そんな冗談……」
搾り出す声までも震え、手にした鉄扇がきつく握り締められる。
そして──高らかに響きわたったのは、哄笑。 京那は、お腹を抱えて笑い出した。
「あははは! 面白いじゃない、なによそれ! この前あんな負け方しておいて、何様のつもりよ! 早瀬さんにも呆れたけど、上には上がいるってこと? 身の程知らずもここまで来るとあっぱれね──ああ、おかしい!」
怒りではなく笑いをこらえていたのだと知って、早瀬は唖然とした。
千里は、表情を変えていない。
零もまた、無表情のままで京那の笑い声を聞いていたが、
「零、今のダメージは?」
いきなり真顔で振られて、戸惑いの色を見せた。 既にチェックは終えていたが、改めて四肢を軽く動かしてから、
「問題ない……よ」
「油断は二度と許さないわ。 連戦よ。 全力を出せるのね?」
「う、ん」
「いいでしょう」
京那は鉄扇をぱちりと鳴らした。 つかつかと部屋を横切ると、逃げ道を封じるかのように戸口近くで振り向いた。 真っ直ぐに腕を伸ばし、千里に向けて鉄扇を突きつける。
「挑戦権をあげるわ、千里さん。 ただし、それだけ条件を加えた以上、賭け金も高くさせてもらうわよ。 せいぜい後悔するといいわ」
突きつけた鉄扇を、京那はゆっくりと頭上へと持ち上げていった。
それを合図に、大気もまたゆっくりと凝結していく。
零は、オーソドックス・スタイルに。
千里は、真半身に。
初邂逅──ジムで対決した時と、同じだ。
あれからまだ、幾ばくも月日は経っていない。 ゆえにおそらくは結果もまた、同じにしかならないはずだった。
あの時の結末を思い出して、早瀬は叫んだ。
「千里ちゃん!」
「零」
千里は応えず、絶妙に被せられた京那の呼びかけの方に、わずかに零が目線を向けた。
「くだらない条件に惑わされてはだめよ、零。 本気で……いいえ」
天井のシャンデリアを指した鉄扇に、力が籠もる。
撃発の時が、近づいていた。
「殺す気で、やりなさい」
京那の腕が、合図と化して振り下ろされた。
|