テレビの天気予報が、今晩これからの雨を告げる中。
苛立たしげな呟きを発したのは、四人部屋の病室に置かれた窓際のベッドだった。
「何やってるのよ。 連絡もくれないで……」
同じ苛立ちを電話でぶつけたのが、随分と昔のことに思える。
入院中はさすがに編みこんでいない長い金髪を指に絡ませながら、上半身を起こしたその女性は、ベッド脇の台に置いた携帯電話を見つめていた。
そちらに向かって手を伸ばして──途中で、引き戻す。
今日だけで十回は繰り返した行動。 そんな自分にいい加減嫌気がさしたのか、
「あぁもう、知らないわよ!」
と大きめの声で言い放つと、ベッドに沈み込んで、頭から布団をかぶってしまった。
なんやなんや真壁、と隣のベッドから飛んできた先輩の声に、何でもないわ、といつもの如くタメ口で答えてから、彼女はぽつりと呟いた。
「どこで何やってるのよ……。 あの先輩は……」
先ほどと同じようで、少し違う言葉。
その違いを作り出したのは、別れ際に相手が見せた表情、その記憶だったかもしれない。
「あんな、あんな顔で、どこか行っちゃうなんて……許せるわけないじゃない! 早く、戻ってきなさいよねっ。 みんな、待ってるんだから……!」
白いシーツが細い指にきつく掴まれ、微かな音を立てた。
──ただ待つことに、早瀬が不安と焦燥を感じ始めてきた頃。
ホールと言っても良いほどに広い部屋の扉が、ノックも無しに開いた。
「お待たせしてしまってごめんなさいね、早瀬さん」
丁寧な物言いとは裏腹に、遠慮のかけらも無くズカズカと広い空間へと踏み込んできたのは、京那だった。 すぐ後ろには、零も付き従っている。
零は長衣こそ脱いでいたが、フィンガーグローブなどを付けた戦闘スタイルであることと、肌に浮かぶいくつかのアザが、早瀬の目を引いた。
だが、何よりも早瀬が気になったのは、京那の口調の方だった。
「お話があるとのことだったけれど、私の方もお話があるの。 ついさっき出来た、と言ったほうが正確かしらね」
弾むような声は、あからさまな上機嫌、いや有頂天と言っても良いほどで、早瀬はこんな京那を見たことが無い。 京那も、早瀬の怪訝そうな視線に気付いたのか、
「あなたには、感謝してるのよ」
含み笑いを見せてから、指を一つ鳴らした。 どういう仕掛けか、部屋に置かれたテレビの電源が入り、無音の映像を映し出す。
木製のアンティーク椅子が、カーペットの上で音を立てた。
立ち上がった早瀬の目に映っているのは、零と伊達による死闘の、まさに最終局面。 モニタ越しでも鳥肌が立ちそうな零のバックハンドブロー──サイレントナックルという名を早瀬は知らぬ──によって、無惨に葬られる伊達の姿だった。
口元を覆った早瀬の手が、小刻みに震える。
「伊達……さん……」
「まさか、あの伊達選手を連れてきてくれるとはね。 望外だったわ」
開いた鉄扇で隠された京那の頬が笑みを形作っていることは、想像に難くなかった。
「国内──いえ、現役最強とも言えるストライカーを倒した零に、もはや敵はいない。 あなたのおかげで、寿零というレスラーはついに完成したのよ。 約束通り、あなたの団体にも多額の寄付をしてあげるわね」
早瀬を振り向かせたのは、約束通りという単語だったのかもしれない。
「私は……私が伊達さんを連れて来たわけじゃありません。 それに約束は、零さんを倒せたなら、という話だったはずです」
「そんなの、言葉の綾よ」
京那は、片手で鉄扇を閉じた。
「誰であろうと、今の零を倒せるわけが無いでしょう? 命すら懸けた真剣勝負の場で、この子をさらなる高みへと上らせる相手が欲しかったのよ。 第一、本当に零が倒されちゃったら大変なことになっちゃうわ。 このプロジェクトは元の木阿弥、水の泡。 私もコレよ、コレ」
横に倒した鉄扇を、首の前で左右に振る。 そんな心配も無くなったせいか、その挙動すら楽しげだ。
「そうそう、あなたにも特別ボーナスを出すわね。 望む望まざるに関わらず、伊達選手を連れて来てくれたのは間違いなくあなただもの。 後で口座番号を教えてくれれば……」
「お金なんて、要りません」
はっとした表情で早瀬を見つめたのは、零だった。
京那の方は、どうせ気の迷いかポーズでしょ、としか思っていない顔つきで、
「あらあら、遠慮しなくていいのよ? それとも、お金以外の物がいいのかしら? 大抵の物なら相談に乗れると思うけど」
「……それなら、お願いがあります」
やっぱりね、としたり顔で頷いた京那だったが、
「私を──寿零と戦わせてください」
「はぁ?」
今度は京那も、思わず口を開けた。
「戦わせてって、リングの上で? まあ、そうね。 零もあなたも復帰すれば、そのぐらいのカードは組んであげても──」
「今ここで、です」
京那の眉が不機嫌に寄ったのは、自分の言葉を早瀬に遮られたことだけが理由ではなかった。
「あなた、何を言ってるの? まさかと思うけど、あなたが零を倒すって言ってる? あんな小団体でセミ前止まりのあなたが? もしそうなら、悪いけど正気を疑うわ」
「そうです」
早瀬の肯定は、『もしそうなら』という部分への答えだった。
京那は、本当に正気を疑うかのような目を早瀬に向けた。
それから手にした鉄扇を軽く弾くと、唐突に失笑した。
「やれやれ、本当によくわからない人ね。 素直にお金だけもらっておけばいいものを。 いいわ、これも特別ボーナスのうち。 ──零。 ダメージは残ってないわね?」
顔だけを振り向けた京那に、零は頷いた。 ダメージがあっても頷きそうな性格ではあるが、京那の見立てでも大した怪我は無く、スタミナも回復している。
「早瀬さん、それではお望み通りにどうぞ。 零は、優しく遊んであげなさい」
双方に声を掛けてから、京那は大きく一歩下がった。
その顔を、風がかすめた。
焦って視線を飛ばした京那の眼前、一瞬で零との距離を縮めた早瀬が先手を取っていた。 京那の慧眼でさえ捉えそこなう動きから放たれた掌底は、零のスウェーで空を切ったが、
「お金のため、じゃ……なかった、の?」
「いいえ。 お金のためですよ」
答えた早瀬を見つめる零の目にも声にも、嘲りや余裕は無い。
完璧に避けたはずの早瀬の掌底は、零の前髪を数本持っていったのだ。
「でも、でもね。 どうしてお金なんかが、あんなものが欲しかったのか……あなたたちには、わからないでしょうね!」
早瀬の流れるような追い突きからの前蹴りを、後ろにそして横に躱して、
「そうだ……ね」
零は、素早いバックステップで間合いを広げた。
「あなたにも……私のことはわからない、ようにね……」
アップライト気味の構えを取った零を目がけて、早瀬は悲痛にも聞こえる気合いとともに飛び込んでいった。
「へっ? 早瀬さんなら、無事に決まってるじゃないっスか」
真田は、柳生に向けた目を丸くして言った。
エコー検査を終えて CT検査を待つ間の控室。 検査着に身を包んだ柳生と真田は、他に誰もいない部屋で、隣り合って腰を降ろしている。
「怪我らしい怪我もなかったって千里さんも言ってたし。 今は、ロビーかジムで自分らを待ってくれてますって」
「怪我が無ければ無事、というものでもあるまい」
「……それって、あの、ままま、まさかっ!? か、監禁された早瀬さんが、男たちからあんなことやこんなことを……っ?」
「違うっ」
ここ数日で知った、真田の意外に豊かで突拍子の無い想像力。 それがこんなところで発露したことに、柳生は苦虫を噛み潰した。
「捕まっていたことが問題ではない。 私たちがこうなってしまったことが問題なのだ」
「こうなってって……自分らも、怪我らしい怪我は無かったわけで」
「だから、怪我の問題では無いと言っている」
柳生は溜め息をついた。
真田の物わかりの悪さにというより、早瀬のことを慮ってのものだった。
「私たちは、彼女の事情を知った。 そして、零の襲撃を受けた。 実際の因果関係はどうあれ、彼女がそれをどう思うか、ということだ」
「……秘密を知ってしまったあなたたちが悪いのよ、オーホホホホッ──なんて言う人じゃ、まあ無いっスねぇ」
「彼女は──優しすぎるのだろう」
柳生は、もう一度溜め息をついた。
そうだ。 そうなのだ。
全てを受け入れるにも、撥ねつけるにも、知らぬふりをするにも。
そのどれを選ぶにも、早瀬は優しすぎたのだ。
「だから、苦しんでしまうことになる」
柳生は、細く鋭い目を閉じた。 まぶたの裏に、早瀬の微笑みが浮かんでいた。
「それも、一人きりでな」
ほんの少し前、別の病院で一人の女性が想い浮かべたのと、同じ表情。
それは、あまりにあえかな微笑みだった。
数えて三発めとなる早瀬の中段蹴り。
それらは全て零に防御させることを真の目的としていたが、零は二発めでその目的までも見切っていた。
避けも受けもせず、鋭く踏み込んでのボディブロー。 みぞおちを抉る黒い拳に、早瀬もたまらず顎が出た。
「く、うっ!」
すぐさま態勢を整えようとするが、下がる早瀬よりも伸びた零の右腕が速かった。
とっさにカバーした腕も間に合わずに喉元を掴まれ、そのまま左手までも加えられ、宙に吊り上げられる。
腕が伸び切った完璧なネックハンギングツリー──何という零の腕力か。
早瀬は手足を零に打ち付けるが、ビクともしない。 宙吊りの状態では威力が出ない上、頸動脈を極められた身体からは急速に力が失われていってしまうのだ。
「勝負あった、ね。 でも、大したものだったわよ、早瀬さん」
京那の宣言には、掛け値なしの賞賛が込められていた。
「これなら最初から、あなたを零にぶつけておけば良かったわ。 リングでの戦績だけで実力は判断できない……良い教訓ね。 まさに鬼気迫る、本当に素晴らしい闘いだったもの」
京那の手放しの褒め言葉に、早瀬も満足──するわけがない。
薄れゆく意識を必死に繋ぎとめて、首を振り、腕を掴み、身体を蹴って、抗う。
うっすらと開かれたその目の端からは、一筋の涙が零れ落ちた。
「でも、そんなあなたですら、零には遠く及ばなかった。 そうよね、早瀬さん?」
早瀬に呼びかけたようでいて、京那はもはや彼女など見てはいなかった。
窓の外、雨に煙る下界の明かりに向けて、手を広げる。
「わかる? 零はね、もう世界を狙うどころじゃないの。 世界を獲り、頂点に君臨できるだけの力を手に入れたのよ。 この寿京那のプロジェクトのおかげでね!」
高揚とした彼女の、それは演説だった。
「ストライカー? グラップラー? そんなの、もう関係ないわ。 今の零は、プロレス史上、最高の作品。 かつて女神とまで呼ばれた選手たちと同じ──いえ、彼女たちをも超える存在になったんですもの!」
──何かが、立て続けに二つ、風を切った。
恍惚に酔った京那は気づかない。 零だけが、自分を狙ったと思しきそれらが大きく逸れ、壁を叩いたことに気づいた。
床に落ちて転がったのが、青と赤の飾り石だと知った瞬間。 頭上に何かの影が落ちたのを感じて──
盛大に陶器の割れる音が、すぐ近くから鼓膜を突き抜けた。
「きゃあっ!?」
京那が思わず前につんのめったのも、無理はない。
彼女の真後ろで弾けた鋭い破砕音は、さすがに京那を陶酔から一気に引き戻し、現実を振り向かせた。
飛び退った零と、振り落とされるように解放されて床で咳き込む早瀬の姿も視界に入ったが、京那が注目したのは、廊下にあったはずの大きな壷が床に晒した無惨な姿だった。
「な、何よ!? 何で、こんなものが!? 危ないじゃないの!!」
「──すみません」
京那の視線が、開いたままの扉の向こうへと動いた。
零も同じく。
最後に早瀬が、二人の視線の先を見つめた。
月など──どこにも出てはいない。
それなのに、床に座りこんだ早瀬の瞳には、夜を照らす月の姿が映っていた。
蒼く揺れる光の中でたたずむ、長いポニーテールを靡かせた、一人の少女の姿とともに。
「コントロールが、悪いもので」
──桜井千里。
早瀬葵にとって、ただ一人の天使が、そこにいた。
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