パンッ。
乾いた音がどこかで聞こえた。
右の頬に、鈍い痛みが走る。 それを合図に、泥の海に沈んでいた意識が、ゆっくりと浮かび上がって来た。
辺りは暗く、しかし澱んだ海面の上には、光が見える。
動かない手をそちらに伸ばそうとした時、水と光が大きく揺れた。 氷のような冷たさが急激に雪崩れ込んできた瞬間、
「半醒半睡? そろそろ目を覚ましなさい!」
苛立つ女の怒声が決定打となって、早瀬ははっきりと覚醒した。
頭や顔の不快感に首を大きく振ると、水滴が飛び散ったことを感じた。 どうやら、目を覚まさせるために、頭から少量の水を掛けられたらしい。
「こ、ここは?」
薄暗い部屋、ということだけは認識できたところで、左から髪を荒々しく引っ張られた。 顔ごともっていかれそうになったが、今度は右から顎を掴まれて強引に引き戻される。
「いつぞやのリング以来ですわね。 まさかあなたが泥棒猫とは」
「鶏鳴狗盗……。 唾棄すべき存在ね」
歪んだ形で固定されてしまった顔を痛みにしかめつつ、早瀬は左右の手の主を、何とか動かせる目で追った。
ロングとセミロング。 髪型に大きな違いはあるものの、顔立ちは酷似した二人の女性が、軽侮の笑みを浮かべて自分を囲んでいる。
試合用のメイクこそしていなかったが、その顔と笑みとに、早瀬は見覚えがあった。
「あ、あなたたち……まさか、ウォン・シスターズ!?」
「姉のキャシー・ウォンと、妹のブルック・ウォン。 アメリカは TWWAを主戦場とする、中国出身の現役ヒールレスラーよ」
「──その二人なら、私も何ヶ月か前に対戦したことがある」
柳生が、京那の出した二つの名前から、記憶の中の情報を引っ張り出した。
「姉妹ともに中国拳法を主体とする選手で、特に姉の方は相当な達人だった。 あの二人も、零の……おぬしの標的なのか?」
「その反対。 彼女たちはね、協力者なの」
「協力者だと?」
「ええ。 お金次第では、いろいろやってくれる子たちでね。 お父上は中国系マフィアの幹部だし、何かと重宝しているわ」
「ち、中国マフィアぁっ!?」
真田の素っ頓狂な声に、京那は、別に珍しくないでしょ、と言いたげに頷いた。
「穏健派だから、この国で人を殺したりはしないわよ。 とにかく、以前は零にグラップラー──組み技系の相手をあてがってたんだけど、その調査や手引きをしてくれていたの。 早瀬さんの時を境に相手をストライカーに切り替えたわけだけど、役割は同じね」
「待て」
柳生が割り込んだ。
「グラップラーだのストライカーだの、私たちにはどうでもいいことだ。 その協力者たちが、なぜおぬしの命令も無しに早瀬さんを拉致したのだ? 彼女らは、今どこにいる?」
「どこにいるのかは、まだ調査中。 拉致したのは──縄張り争いみたいなものじゃないの?」
「縄張り争い? どういうことだ」
聞き返したのは柳生だったが、真田も訝しげな顔を作った。 残る千里も、ポーカーフェイスの中で閉じていた目を開いて、京那へと向ける。
三人の視線を浴びて、京那は扇子で軽くあおいだ。 その動きと、そよ風を受けた表情が、物分りの悪い人たちねぇ、と主張している。
「そりゃあそうでしょ、言わば早瀬さんは商売敵だもの。 いきなり独占市場に割り込んで来られては、誰だって良い顔はしないわね。 まぁ、早瀬さんとの契約をあの姉妹にも伝えておかなかった点だけは、私のミスといえば──」
「待て!」
今度も割り込んだのは柳生だが、先ほどとはトーンも鋭さも段違いだった。
「商売敵だの契約だの、何のことだ? 早瀬さんとお前の間には、やはり特別な関係があるのか!?」
京那の表情が、三秒おきに変化した。
まずは、ぽかんと小口を開け、次に眉をひそめ、さらに目を閉じて沈思黙考し、そして最後に──声を上げて笑い出した。
「ああ、そういうこと? どうもおかしいと思ってたけど、道理で私一人が悪者にされているわけね! あらあらっ……まったく早瀬さんも何も言わないなんて、とんだ偽善者ぶりじゃないのっ」
閉じた扇子で膝まで叩き、やや上品さには欠ける態度でひとしきり笑ってから、京那は自分を見つめる三つの顔を、芝居がかった動きで見回した。
柳生、真田、そして千里の順に。
「──いいわ、私が話してあげる。 早瀬さんが隠してることも全て、ね」
京那は、自慢の長い黒髪をかきあげた。
「あのぉ、お二人とも……こういうの、日本では犯罪なんで……」
おそるおそる口を開いた早瀬の頬が、派手な音を立てた。
既に何度も平手で叩かれ、左右ともに少し赤くなっている。
「ご安心なさい。 拉致監禁はうちの国でも犯罪ですよ。 気にしていないだけです」
「順従謙黙。 素直に、私たちの邪魔はしないと誓いなさい」
入れ替わりで話しかけてくるウォン姉妹に、早瀬は果敢に訴えかけた。
「だから、私はあなたたちの邪魔なんてしてません! これからもしませんから!」
「では、寿家とも二度と関わりあいにはならないと約束できますわね?」
「そ、それは……」
「笑止千万。 それでは話にならないわ」
鼻で笑う姉妹に、早瀬は唇を噛んだ。
先ほどから、この繰り返しだった。
元はバーか何かだと思われる、小さなビルの地下テナント。
小部屋で椅子に縛られた早瀬の傍に立つのは姉妹だけだが、彼女たちに付き従う女性たち──早瀬に紙を渡し、麻酔針を刺したのは彼女たちだ──の姿も隣室に確認できている。
説得にしろ強行突破にしろ、このままでは、早瀬の脱出は甚だ困難を極めると思われた。
そう、このまま、何か新しい要素が加わらない限りは。
「何ごと!?」
姉のキャシーが突然上げた鋭い声に、妹のブルックと早瀬も、ようやく隣室の騒ぎに気が付いた。
閉じられたドアの向こうを、甲高い中国語が飛び交っている。
慌ただしい物音がそこに混じった──と三人が思った瞬間、内開きのドアが衝突音を伴なって勢いよく開き、あろうことか一人の女性が、仰向けに倒れながら飛んできた。
すわ敵か、と身構えた姉妹はしかし、のっそりとドアから入ってきた人影に、吊り目を精一杯丸くすることとなった。
「ぜ、零……さまっ!?」
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