寿零の登場は、ウォン姉妹にとっても予想外だったらしい。
顔を見合わせた二人を、今日は長衣でなくごく普通のトレーニングウェアに身を包んだ零が、少し迷惑そうに一瞥した。
「いきなり、襲われ、たら……困る、よ」
「も、申し訳ございません!」
キャシーが居ずまいを正して頭を下げ、ブルックも慌ててそれに倣う。 京那以外でも、寿家は雇い主であり、零もその一員ということなのだろう。
「それで、零さま。 どうしてここを? いえ、今日はこんなところに何を……」
「その、人……」
零の登場に姉妹と同じく驚いていた早瀬は、彼女から人差し指を向けられて、身を硬くした。 何をされるかという不安が早瀬からにじみ出る中、
「しばらく……二人きりで話、させて……くれる?」
零を除く三人が、一斉に驚いた。
「零さま!? この女と話などと! それも二人きりとは!」
物申したのはキャシーだったが、零のひと睨みで気圧されて、あっけなく引き下がった。
妹を促して、二人で倒れた手下を抱え、そそくさと隣室へと出て行く。
早瀬が言葉を発したのは、ドアが閉められて零と二人きりになってからだった。
「あのっ。 どうして、ここに?」
「京那が、あの子……あなたの連れに、もう一度会うって言う、から。 それで私も……」
早瀬が訊いた『ここ』の意味を零は取り違えたようだが、その答えは答えで、早瀬には気になるものだった。
「連れって、千里ちゃんのこと? 一体、何の用で?」
「知らないし……答えないよ」
零の声は少し不機嫌に聞こえた。
教えてくれない京那への不満か、自分に話をさせず質問ばかりする早瀬への不満か。 いずれにせよ早瀬は、ひとまず口をつぐまざるを得なかった。
「それじゃ、こっちの話……するけど」
零は、早瀬の正面に立った。
自然体からも滲み出る彼女独特の迫力に、早瀬は思わず身じろぎをし、縛られた椅子が床と擦れて音を立てた。
そんな早瀬目がけて、零の顔がゆっくりと下がり、
「たくさん仲間を怪我させて、ごめん……なさい」
深々と下げた零の頭は、ちょうど早瀬の目の前にあった。
「零……さん?」
つむじは左巻きだった。
「あなた、とは……何度か会ってるけど。 謝ったことなかった、から」
零は、下ろした時よりもさらにゆっくりと、顔を上げた。
「ターゲットだった、中森って人。 だけじゃなく……他の人たちまで。 それにこの前は、千里って子にも……だから、ごめんなさい」
相変わらずの鉄仮面で声にも抑揚はないが、心底申し訳なく思っていることは十分に伝わってくる。
いや、もうずっと以前から十分に伝わっていたからこそ、早瀬は零を恨む気になれないでいるのだった。
恨むとすれば、それは──
「なのに……どうし、て?」
「えっ?」
「私と京那は、あなたの仲間に……酷いこと、したよ。 それなのに……あなたは、どうしてなの?」
早瀬は、視線を床に落とした。
零の目を見ていられなかったのは、彼女が次に何を問うか、わかってしまったからかもしれない。
「あなたはどうして……京那に協力なんかできる、の?」
「お金のためよ」
自信たっぷり言い切ったのは、京那だった。
柳生、真田、千里の三人を見回すその口元には、ここには居ない早瀬に対する冷笑が隠しようもなく浮かび上がっている。
「私と早瀬さんは、一つの契約を結んでいるの。 零を倒せるくらい強いストライカーを連れてくれば、前の融資の何倍ものお金を、団体に寄付してあげるというね」
「前の融資、だと?」
柳生の反応は想定の内、あるいは誘導した結果だったのだろう。 京那は即座に言葉を返した。
「早瀬さんの所属団体は、少し前から資金繰りが非常に危ない状態だったのよ。 それで、見かねた私が融資を申し出たってわけ」
「なんだぁ。 お金って、団体の話だったんっスね」
真田が、ほっと息をついた。
「てっきり、早瀬さんが自分の欲望のために、なんて話かとビクビクしたっス。 団体のためなんて、むしろ早瀬さんらしいじゃないですか」
「そうね。 私も美談だと思うわ」
京那もにこやかに同意した。
花のような笑顔が、元の冷笑を通り越して嘲笑に変わるのは、一瞬のことだった。
「その資金難を引き起こしたのが、当の早瀬さんでなければね」
むろん京那とて、最初から全ての事情を知っていたわけではない。
零を実戦で鍛え上げるべく、まずは実力派のグラップラーに的を絞って野試合──闇討ちを仕掛けていた京那は、仕上げとして、早瀬の先輩にあたる国内有数の関節技使い・中森あずみを標的に据えた。
中森が所属する団体の資金繰りが、急激かつ深刻に悪化しており、その原因が早瀬葵という一選手に多額の現金を貸与したためと知ったのは、中森を調査した過程のことだった。
貸与自体は不正でも何でもなかったのだが、通常では考えられない金銭の動きを京那が見逃すはずはなかった。
「これは、後で早瀬さんから直接聞いた話だけれど」
わざわざそう前置きしてから、京那は続けた。
「彼女、相当お金に困ってたとかで、最初は本当に会社のお金に手をつけようとしたのよ。 ところが、なんと社長に見つかっちゃって、あえなくお縄──と思ったら、なんとなんと、社長が同情して会社のお金を貸してくれたんですって。 美しい人情話よねぇ」
おかげで零細団体の経営は火の車だけどね。 と付け加えた京那は、何が面白いのかころころと笑った。
生まれてこの方、貧乏などとは無縁の生活を送ってきた人間の笑いだった。
「その後は──もう、さすがにわかるんじゃないかしら。 私は早瀬さんに話を持ちかけ、早瀬さんはそれを受けた。 その結果、彼女の仲間に何が起きたかは知っているはずね。 全てが終わってから駆けつけた早瀬さんは、蒼い顔して『まさかこんな話だったなんて』とか言ってたけど──ふふふっ、それもどうだか。 本気で後悔してるなら、次に提案したストライカー探しなんか、引き受けるわけがないものねえ?」
楽しげな声で言い終えると、京那は一つ息をついて聞き手の反応を待った。
結果は、無言。
声も出ない様子の三人に満足したのか、京那は再び口を開いた。
「これでわかったでしょう? 彼女がどんな人間で、何を隠していたのか。 あの人は、早瀬さんはね──」
もうどのくらい、時は流れたのだろう。
数秒か、数分か、あるいは数時間か。
零の問いかけにもその眼差しにも応えることができずに、早瀬はただ、唇を噛んでいた。
(早瀬さん。 あなたはね──)
早瀬の脳裏に、京那の姿がゆっくりと像を結んだ。
強いストライカーを連れてくるよう早瀬に告げた時、去り際に振り向いた京那の姿。
彼女は、こう言ったのだった。
「涙を拭ってくれた社長、支えてくれた先輩、慕ってくれた後輩──その全てを、あなたは裏切ったのよ」
|