「よ〜し。 買い物、買い物! まっかせといてね、美幸ちゃん! これでもかってくらい安く抑えてみせるからっ!」
「そ、それは頼もしいっス、早瀬さん。 けど、予算内であれば、そこまでケチらなくても大丈夫なんで……」
「ケチじゃないの。 節約なの! 安物掴んだりしちゃダメだけど、同じ物なら安い方がいいに決まってるじゃない。 そうでしょ?」
「ま、まぁ。 確かに」
「買うもの一杯あるし、これは腕が鳴るよぉ。 無駄遣いはこのお姉ちゃんが許さないんだからっ!」
食材だのジムの備品だのの買い出しに、ここまで燃える人間がいようとは。
優しく柔和で物静かで、どちらかと言えば気弱な先輩。 そう思っていた早瀬に対する大幅なイメージ修正を余儀なくされた真田は、やる気一杯で腕まで振ってる早瀬の三歩後ろを歩きながら、こっそり溜め息をついた。
「これはもう、考えすぎっスよ。 柳生先輩……」
──早瀬さんの買い出しに、荷物持ちとしてついていけ。
柳生から一人呼び出され、告げられた指令。 その前半部分は、真田にとって何ら問題では無かった。
しかし、
──そして、彼女の挙動に怪しい点がないか見張れ。
という後半部分は、真田にとって到底二つ返事で受けられるものではなかった。
「……具体的に何かあるというわけではない。 そう先走るな、真田」
と柳生が言ったのは、早瀬は実はスパイなのか偽者なのか黒幕なのかと、真田が想像力豊かな質問を一通り披露しきった後のことだった。
「仲間が病院送りにされた仇討ちと、これ以上の惨劇を防ぎたいと願う気持ち。 これらは早瀬さんも、我々と何ら変わらぬ。 いや、我々よりも強いだろう」
「そりゃあ当たり前っス。 でなきゃ、こんな物騒な話に千里さんや自分らを巻き込もうとする人じゃないですよ、早瀬さんは」
これは柳生も認めた。 しかしその上で、どうしても違和感が拭えないのだと言う。
「仲間の仇である京那と零を、彼女はもっと憎んで良いはずなのだよ」
京那の手駒という感がある零はまだしも、京那本人には同情の余地など無い。
なのに、早瀬は京那に対しても憎しみや恨みをさほど抱いてはいないようなのだ。
早瀬の優しすぎる性格の分は差し引くとしてもなお、柳生にとってそれは大きなしこりとなっていた。
「早瀬さんと京那、あるいは寿家との間には、他にも何か裏が──関係があると私は見た。 あくまで私のカンにすぎんがな」
「関係って……実は二人が幼なじみだとか、生き別れた姉妹だとか、あるいは禁断の仲だったりするとか、そういうのっスか?」
「……いや。 さすがにそこまでの関係では無いと思うぞ」
柳生は、後輩のどうにも飛躍がちな発想に呆れたのか、奇妙なほど神妙な顔で言った。
「──美幸ちゃん? 話、聞いてる?」
真田は我に返った。
そして、慌てた。
出がけのやり取りを思い出していたため、早瀬の話は全く耳に入っていなかったのだ。
「あ、いや、えっと、その……節約の話、でしたよね?」
「あー、聞いてくれてないんだ、ひどいなぁ」
いつの間にか前ではなく傍らを歩いていた早瀬が、真田に向けて頬を膨らませた。 精一杯睨み付けてはいるが、それがかえって微笑ましく、しかも目は明らかに笑っている。
真田も、すんませんっ、と手を合わせてはみたものの、早瀬の演技につられて今一つ真剣味が無いものになってしまった。
「もうっ、けっこう恥ずかしかったのに。 私、美幸ちゃんにお礼を言ったんだよ?」
「お礼、っスか?」
「うん。 千里ちゃんと仲良くしてくれてありがとう、って」
真田は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「あのぉ。 早瀬さん?」
「なに? 美幸ちゃん」
「いや、自分、別に千里さんのことは嫌いでも怒ってもいないっスよ? でも、今日のやり取りを見て、どの辺で仲良くしてるって思ったんでしょうか?」
「あ、ごめんね。 私、千里ちゃん目線だったかも」
真田はさらに混乱した。
「いやいや、それなら尚更っス! 千里さんはずっと無愛想で、言うこともキツくって怖いぐらいでしたって! 自分は教えるのも下手で、仲良くどころか軽蔑されてないかビクビクしてたんですから!」
「そうなんだ。 でも、千里ちゃん、よく笑ってたじゃない」
駄目押しだった。
「いやいやいやいやっ! 全然、一度も、笑ってませんって! 今日はおろか、今まで一度だって、自分は千里さんが笑ったとこなんて見たことないっスよぉ!?」
力説した真田が肺の酸素を出し切って言葉を途切れさせた時、小さいがリズムの良い響きが、その耳に届いた。
「──そうだね。 確かに私も、千里ちゃんの笑った顔は見たことないかなぁ」
くすくすと、早瀬は楽しそうに笑っていた。
「でもね、最近わかったの。 あの子、よく笑う子なんだよ」
そう言われたところで、頭上に疑問符を浮かべるしかない真田に、
「美幸ちゃんも、注意してればそのうちわかるんじゃないかな」
と、早瀬は片目を瞑ってみせた。
「千里ちゃんはね、よく笑ってるんだよ? 苦手なのか嫌いなのか、顔にはぜーんぜん出してくれないけどね」
軽く肩をすくめながらの、こぼれるような笑み。
「だから、こうなったら意地でも見てやらなくちゃ、なんて思ってるの。 あの千里ちゃんが、笑顔を浮かべてくれたところをね!」
真田は、そんなもんすかねぇ、とうわの空で返事をした。
しながら、眩しく感じられる早瀬の顔をどうしても直視できずに目を逸らして、
(裏だの何だのなんて、やっぱり考えすぎっスよ。 柳生先輩……)
と、心の中で呟いていた。
止める間も無く出てしまった、大きなくしゃみ。
柳生は、更衣室に自分しかいないことは知りつつも、口を押さえて咳払いまでし、さらに三つ数えてから、ジムへの扉をくぐった。
ドアを閉めようとしたところで、サンドバッグを打つ衝撃音が一つ、耳に届いた。
「なんだ。 まだ終わっていなかったのか?」
その声に荒い息をつきながら振り向いたのは、千里の他にいるはずもなかった。
「ええ。 まだ日も高いですし、もう少しと思って」
「練習は夜にもある。 オーバーワークになる前に、一度休んでおいた方がいいぞ。 それとも、なにか上手くいかないところでもあるのか?」
柳生の問いかけに、どこか思い悩んだ表情で千里が頷いた。
「真田さんに見せてもらった、斬馬迅です」
「斬馬迅? 真田の奴、あれも教えたのか」
柳生は昼過ぎのやり取りを見てはいない。
もっとも、見ていたら見ていたで、別の驚きに変わっただけだろう。 あの時、千里は自ら習得を拒んだはずなのだから。
「隙が大きすぎる技ですが、あの威力は魅力的です」
千里は、手の甲で汗を拭った。
「パワーの乗せ方だけでも取り入れられればと思ったのですが。 そう上手くはいきませんね」
「──まあ、真田のアレは確かに凄いが、あくまで他の要素を度外視した結果だからな」
本人は気合と根性が生み出す破壊力と言い張るが、その正否はともかく隙や無駄が多すぎる点は、千里も二、三時間前に指摘したことだ。
柳生もそこは同意見とみえる。
「とはいえ、技の底上げを図りたい気持ちもわかるな。 どれ、私で良ければ見てやろうか?」
「上段蹴り──私のハイキックをですか?」
「私も技の重さ軽さに悩んだ時期はある。 斬馬迅は打てぬが、アドバイスくらいならしてやれるかもしれんぞ」
「ぜひ、お願いします」
「うむ。 但し、それが終わったら休憩を取ることだ。 良いな?」
はい、と短く返して、千里はサンドバッグに構えを取った。
ただの練習──とはいえ、張り詰めた緊張が波紋のように広がっていく。
「いつでも良いぞ」
千里が微かに頷いて──きっかり一秒。
真田のような雄叫びはもちろん、他の劇的な効果や演出も無く、千里の軸足が生み出す螺旋が蹴り足へと伝わった。
柳生の鋭い目が、大きく見開かれた。
商店街からジムへと戻る道には、長い下り坂が横たわっている。
今しがた下り切ったばかりの坂を数メートル上りなおしたところで、早瀬は一旦立ち止まり、後方で自分を見送っている真田に声を掛けた。
「荷物持たせてごめんね、美幸ちゃん! 急いで買ってくるからね!」
「別に急がなくていいっスよ! 自分は先に帰ってますから、気をつけて!」
「ありがと! 美幸ちゃんも、気をつけて戻ってね!」
手を振る早瀬に、真田はレジ袋を持った左手を上げて応えた。 右手は中身の詰まった大きな紙袋を抱えているため、おいそれとは動かせない。
備品の買い忘れに気付いたという早瀬が、早足で坂を上っていくのをしばらく見届けてから、真田は長い坂に背を向けた。
「あっ」
柳生の「見張れ」という言葉を、ようやく思い出したらしい。 やばっ、と左手で額を押さえつつ、真田は奥歯を噛み締めた。
善後策に悩んでか、しばしそのまま唸っていたが、
「……ま、いいや。 どう考えても、柳生先輩の思い過ごしっス!」
という独り言を残すと、一度も後ろを振り向くことなくジムへの道を歩き始めた。
──もしも、ちょうどそのタイミングで振り返っていれば、真田も商店街まで戻る気になったかもしれない。
坂の途中で立ち止まり、思い詰めた表情でこちらを見つめる、早瀬の姿を目にしたならば。
「……ごめんね。 美幸ちゃん」
謝罪の言葉は、荷物を持たせたことに対してではないだろう。
早瀬は、何かを振り切るように、一気に坂の上まで駆け上がった。
商店街に戻ってきても、そのまま脇目も振らずに走り抜けて行く。 そのまま長い通りを抜ければ、ちょっとしたオフィス街になっている駅周辺へと辿り着くはずだ。
それは、買い物の最中に真田が教えてくれたことだった。
「駅に……あと、十五分……」
商店街を抜けたところで、息が続かなくなった。
一度足を止めて呼吸を整えながら、早瀬はポケットから一枚の紙を取り出した。
最初から持っていたものではない。 小さなスーパーでの買い物中、すれ違いざまにぶつかった吊り目の女性が、いつの間にかポケットにねじ込んでいったものだ。
駅の名前と時間、そして短い文が書かれただけのプリント用紙に命ぜられるまま、早瀬は駅を目指しているのだった。
「走らなくても……間に合うかな」
大通りを右に行ったところに、駅ビルが見えている。 ゆっくり歩いたって、五分もかからないだろう。
早瀬は、吹き出す汗を拭おうとハンカチを取り出して──チクリと刺す、小さな痛みを首筋に感じた。
「えっ、やだ! 虫!?」
早瀬は身震いと同時に、右手を急いで首の後ろに回した。
──およそ、一時間後。
駅の方角から歩いてきた一人の女性が、風が足元に運んできた白い紙に気付き、なんとはなしに拾い上げた。
その紙には、駅の名前と時間、そして『貴女と寿京那の関係を知っている』という一文だけが無機質に印字されていたが、拾った女性には意味がわかるはずもなく、ただ首を傾げることしかできなかった。
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