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迷宮に迷いし蝶 [1]

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 静かな昼下がりは、突如として、その終わりを告げた。

「真田六文銭の一撃! 受けてみろぉぉっ!!」

 辺りを揺るがす、大音声。
 ジムの窓が震度四クラスに揺らぎ、窓の外で寝そべっていた野良猫は、毛を逆立てて跳ね起きた。
 続いて、声と張り合うかのようなけたたましい衝撃音が鳴り響くに至り、あわれな猫は、絶好の昼寝スポットを追い出される憂き目を見たのだった。

「ふっふっふっ。 遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ……」

 猫の受難は露知らず。 自らの放った一撃に大きく鎖を軋ませるサンドバッグを前にして、仁王立ちの少女真田美幸が、時代考証的には少し問題のありそうな口上を、至極満足げに言い切った。
 両の腕を胸前で開いて、握った拳をわななかせる。

「これがこの真田美幸の最終決着技、その名も“斬馬迅”っ! 溜め込んだ気合と根性を雄叫びとともに解き放っての上段蹴りは、馬をも断ち斬る大太刀が如し! この技さえあれば鬼に金棒、真田に十勇士! 喰らって倒れない敵がいるものか!」

 右拳を天に突き上げて叫んだ真田が、その勢いのまま豪快に後ろを振り向いた。

「さぁ! この技をやってみるっスよ、千里さん!」

「嫌です」

 ズルッ、という音が聞こえてきそうなほど見事に、真田が床に滑った。
 いちいち大げさな人だ、と千里が思ったかどうか。

「ななななぜ!? どうしてっスか!? 自分のとっておきっスよ! 最終決着技っスよ! 千里さんだって、ぜひ見たいって言ったじゃないですか!?」

「確かに見たいと言いましたが、やるとは言ってません」

 立ち直るやいなや口から泡を飛ばす真田に、桜井千里は相変わらずの無表情の中で、少しばかり迷惑そうに眉を寄せた。

「見たところ、予備動作や溜めの隙が大きすぎます。 パフォーマンスありの相手ならともかく、寿零相手では使えそうにありませんよ」

 千里は技を教えてもらう立場だし、真田は仮にも命の恩人なのだが、数ヶ月とはいえ真田が年下でもある。
 そのせいか、千里はかろうじて敬語ながらも口撃に容赦が無く、真田は真田で、怒るというよりは耳が痛いと縮こまった風だった。

「それに、何より……」

「な、何より? なんっスか?」

 恐る恐る訊いた真田に、ちらりと目をやってから、千里は反対を向いた。 さすがに少し言いにくそうに、それでもはっきりと、言う。

「技を出しながら叫んだりなんて、できますか。 あんな、恥ずかしい」

「がぁーーーん!」

 自らの口でショックを表現して、真田はがっくりと床に手をついた。
 どうやら、彼女にとって一番大切な点かつ図星を直撃したようだ。
 うううっ、という小声まで加えた姿は、普通なら演技か冗談でしかありえないが、彼女の場合は本気の可能性が高かった。

「ただ

 見るに見かねたか、千里が言葉を繋げた。

「ただ、威力はこの上無く凄まじい技ですね。 ぜひ参考にさせてもらいます」

 真田が、横向きに千里を見上げた。
 ここで一発ニコリと微笑めば、単純な真田は気を取り直しただろう。

 しかし、千里は決して笑わない。

 結果、真田は一層重たい空気を纏って床に丸まってしまい、気休めは要らないっス、などとブツブツやり始めた。
 それを見た千里は、額に指を当てて、首を二、三度、横に振る。
 面倒なという苛立ちと、やってしまったという後悔が、四対六にブレンドされた挙動だった。


「……あはははは。 これは、振り向かない方がいいお話だよねー、きっと」

 規則正しくダンベルを振りながら、背後で展開された小芝居風味な騒動を無視することに決めたのは、早瀬葵だった。

 柳生と真田のところでしばらくの間お世話になることに決めた、早瀬と千里。
 目下のテーマは、打倒・寿零を目指す千里の鍛錬であり、これには柳生と真田も協力を申し出てくれた。
 しかし、全員つきっきりでコーチというのはあまりに効率が悪いし、それぞれ自分の練習もある。
 自然、千里の面倒見は毎日三人で回り持ちというルールが設けられ、すでに何度かのローテーションをこなしているのだった。

むむ? 真田の奴、なにを珍妙な休憩の取り方をしているのだ?」

 事務室に続くドアが開き、柳生美冬が姿を見せた。

「床をゴロゴロと、ストレッチとも思えぬが。 ううむ……これは……」

 と生真面目に考え込んだ結果、

「真田! コーチ役が生徒を放置して遊んでいるとは何事だ。 サボってないで真面目にやらぬかっ」

 この結論には、さすがに早瀬も同情した。
 歩いてきた柳生にフォローの一つでも入れておこうかと思ったところ、その柳生から差し出されたものがある。

「週刊……レッスル?」

 女子プロレスを黎明期から扱い続けてきた、老舗の雑誌だ。
 早瀬が受け取った一冊は、発行年こそ今年だったが、日付は随分と前のものだった。

「零の記事が載っている」

 はっとした早瀬が、ぱらぱらとページをめくる。 厚い雑誌ではないので、目次を見るよりも直接探す方が早いだろう。

「それとこれは、懇意にしている忍者に調べてもらった話だが」

 忍者?
 記事を探す手を一旦止めて、早瀬は柳生を見た。
 真顔だった。

「失敬。 くのいちと言うべきだったな」

 いやそういうことでは、と早瀬は思ったが、何も言わない。
 侍の友人に女忍者がいても別に不思議ではない、そう思うことにしたらしい。

「彼女の調査によれば、零は母方が寿財閥の本家筋。 一方の京那だが、これは分家の人間ということだ」

 これは、早瀬も知らない話だった。
 脳裏に、このジムで会った時の零と京那の顔が浮かぶ。

「本家と分家……にしては、京那の方が偉そうだよね」

「うむ。 最近は、傘下企業の経営難や、力を入れている武道・スポーツ界、なにより女子プロレスにおける実績不足で、本家の動きが問題になっていたらしい。 そこで、分家代表の顧問役として、あの女が抜擢されたんだそうだ」

「実績不足、ねぇ……」

 ページめくりを再開していた早瀬の手が、目的の記事を見つけて止まった。
 見開きカラーで大きく載った、零の写真。
 アジアタッグ王座を奪いシングルとの二冠王者となった直後のようで、リングに飛び交う紙テープの中、ベルトを掲げて穏やかな微笑を見せた零と、その傍らで愛くるしい笑顔を浮かべる大きな目が印象的なタッグパートナー、そして零と似た面立ちに誇らしげな笑みを乗せたセコンドらしき女性が、一つの写真に納まっていた。
 大きく踊る見出しには、“日本人久々の世界王座挑戦か!?”とのフレーズも見える。

「一時期のプロレス界に比べれば、な」

 息をついたのは柳生だった。

「新日本女子を始め、各団体がしのぎを削った黄金時代。 世界王座すら日本人が独占しようかという時代を知る者たちには、もはやアジアのベルトなど物足りなく感じるのであろう。 わからぬ話ではないが」

「……うん」

 次のページでは、試合の写真がふんだんに使われていた。 半数ほどに出てくる零の顔は、一見無表情ながら、その端々に様々な感情があらわれている。
 先日の柳生が語ったように、早瀬が知る先ごろの零とは、まるで別人だった。

「あやつ零も、今の状況は、望んではおらぬものなのかもしれんな」

「そう……だね」

 二人は揃って、沈黙に身を任せた。
 早瀬は、雑誌に目を落として。
 柳生は、早瀬の横顔を目で捉えて。
 気のせいか、柳生の目つきはどこか険しくも見えた。


 サンドバッグ脇では、何とか復活したらしい真田が、先輩二人の様子など知らぬまま、千里に踵落としを披露していた。
 今度は大げさな叫びも溜めも無しで、鋭い蹴り足が空気を縦に切り裂く。

「と、これが踵落とし。 モーションがデカいのが難点っスが、前蹴りや上段と組み合わせて一発狙いとか、使い方はあると思うっス。 ま、見た目以上に習得は難しいんで、まずは柔軟から……」

 先ほどよりもさらに鋭く、空気が縦に切り裂かれた。

「なるほど。 振り下ろした後のバランスが難しいですね」

 真田の目には自分以上と見えた踵落としを初見で放っておいて、千里は全く納得がいかないのか、眉根を寄せた。

「重心の位置が、はっきりしません。 あの、もう一度見せてもらえますか?」

「い、いいっスよ。 お安い御用っス、アハハハハ」

 真田が浮かべた承諾の笑みは、明らかにぎこちない。
 それでも律儀に構えに入った後輩の姿を眺めて、柳生は苦笑した。

「桜井千里まったく大した吸収力だ。 真田の奴が、他人をうらやむような性格でなくて良かったよ」

「うん。 ……実はね。 私は、ちょっとうらやましく思っちゃってるんだ。 千里ちゃんのこと」

「私もだ」

 恥ずかしそうに告白した早瀬に、柳生もさらりと同意した。

「昨日は私の体捌きを教えたが、一日で練習生や真田の域を超えてしまった。 これなら零に勝てる日も遠くないかも、と思ってしまったよ。 天才と言うのは簡単だが、あれは少し違うな」

「基礎がすっごくしっかりしてるから。 どんな動きも、身体の方が吸収できちゃうんだよね」

「そして、執着心だな」

「執着心?」

 意外な単語だったのだろう。 早瀬のオウム返しには、疑問と不可解が詰まっていた。 柳生もそれを感じたゆえか、表現に訂正を入れる。

「執念、こだわりいや、想いとでも言った方が良いかな。 『強さ』というものに対する、純粋なまでの想い。 基礎の積み上げも、技を学ぶ際の集中力も、それが全てを支えているのだろう」

「強さへの、純粋な想い……」

 早瀬は、蒼い月に照らされた千里の姿を思い出した。
 強くなりたい、と言ったあの時の、千里の瞳を。

「そうだね……。 千里ちゃんは、本当にそうだよ」

「その純粋さを、このような争いごとに巻き込まざるをえないのは心苦しいなどと私に言えた義理ではないが」

 と、柳生は苦笑しながら、

「彼女は、我らのようなプロの格闘家ではないのだ。 そんな彼女の想いを歪ませてしまうことにならなければと、それだけは願っているよ。 早瀬さんも、そうは思わぬか?」

「……そうだね。 千里ちゃんは、本当に……」

 最後の「そうだよ」だけを、なぜか早瀬は繰り返さなかった。

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本章あとがき


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