「一応、名乗っておきます。 桜井千里です」
いささかの好意も感じさせない声で、千里は自分の名を名乗った。
正対した二人の距離は、二メートル弱。
どちらも構えは取っていないが、いまだ顔も見えない相手の技や戦法が不明な以上、少なくとも千里にとって、油断できる距離ではない。
いつ相手の急襲があってもおかしくない状況で、それでも千里は“一応”名乗った。
半分は儀礼、あと半分は動かない敵の反応を見る呼び水であり、もとより返答など期待してはいなかった。
だから、
「……ゼロ……」
という小さな声がフードの奥から聞こえてきたとき、千里は思わず反射的に聞き返してしまった。
「ゼロ?」
「う、ん。 私の……リングネームだ、よ。 寿、零……」
千里の殺気が、ほんの少しだけ緩んだ。
想像していたものとは全く違う、朴訥な女性の声。
これが、少女たちを無惨に痛めつけリング外に蹴り飛ばした、あの非情な敵のものなのか?
「よろし、く……」
漆黒の長衣から突き出された同じ色のフィンガーグローブ、右手のそれが、ゆっくりと前に突き出された。
ここだけは白い肌を見せる指先が開かれ、明らかに握手を求める形で止まった。
千里の驚きと、戸惑いと、逡巡。
それを救ったのは、リング外から鋭く投げ込まれた一言だった。
「零」
苦々しい叱責の響きに、長衣が大きく一度、震えた。
「何をやっているの? これはボクシングやプロレスの試合じゃないわ。 “死合い”なのよ。 そのつもりでやりなさい」
京那の手元で鉄扇が閉じられ、音を立てた。
零のフードが揺れた。 頷いたのかもしれない。
握手を求めた右手がゆっくりと喉元に上がり、左手は少し前方に突き出される。 右足を引いたオーソドックス・スタイル──ボクシングだ。
千里もすでに、真半身に構えている。
ジャブ、ストレート、意表をついての蹴り技まで、何が来ようと対処できる自信はあった。
「……いく、よ」
零の身体が前へと滑り、千里も重心をわずかに移動させる。
──次の瞬間、空間が爆発した。
「っ!!」
声にならない叫びは、早瀬が上げたものだった。
爆風が荒れ狂った錯覚まで感じて思わず髪を押さえ、それでも目だけは閉じずに必死に前を見る。
零が右拳を繰り出し、顔面を襲う寸前、千里が左腕でガードした。 それだけだ。
だが、いかなる拳圧の為せる業か、千里の身体はリング中央からロープ際まで吹き飛ばされ、左腕は防いだのではなく犠牲になったというべきか、痺れて力が入らなかった。
「くぅ!」
己を叱咤するかのように呻いた千里が真に驚愕していたのは、拳のパワーでもスピードでもなかった。
零の初撃は、ジャブでもストレートでも、他のボクシングブローでも無い。
ただ、無造作に殴っただけ、だったのだ。
テクニックや駆け引きを排した、ただの暴力。 それ故に感じる絶対的な力の差──底知れぬ戦慄に襲われつつ、それでも千里は前に出た。
出ようとした。
「ふっ!!」
千里の声か、零の声か。
今度は教科書通りの左ストレートが千里を打ち抜き、決して教科書通りではない凄まじいパワーが、今度も寸前で間に合った右のガードをものともせずに、千里をロープまで弾き飛ばす。
運動エネルギーは吸収されたが、慣れていないロープの反動を受けて、千里のバランスは大きく崩れた。
つんのめった前面を痺れた両腕で何とかガードするも、拳だけでは無いと主張するかのような零のミドルキックが、空いた脇腹にめり込んだ。
全身を駆け巡る衝撃。
肋骨が折れなかったのが不思議なくらいの激痛の中、必死で斜め後方へ跳んだその鼻先を、唸りと共に左フックが過ぎた。
コーナーに背をぶつけた千里の息は、早瀬がこれまで見たことが無いほど、荒かった。
「零を相手に数合持つとは──なるほど、逸材ね」
斜め後ろから早瀬に届いた京那の声には、千里への感歎と早瀬への嘲りが入り混じっていた。
「動・術・実・技、いずれも申し分なし」
コーナーポストを揺るがす、零の右ストレート。 それを大きく沈んで躱した千里が、ロープ際を滑ってサイドへ回るや、右のローキックを走らせた。
「されど。 計・理・虚・法、いずれも遠く及ばず」
零は、素早く踏み込んだ左脚で打点を潰すと、零距離から右のアッパーを放つ。
千里は、避け得る体勢に無かった。
「それでは──」
突き上げられた拳が、千里の顎を──身体を宙に跳ね上げる。
「あの子に、勝てはしないわ」
大きく反った身体が、ロープを遥かに越えて、弧を描いた。
──雨が、降っていた。
白く、しかし暗い闇の世界で、無機質な光と音が、早瀬の耳から離れない。
早鐘を打ち鳴らす鼓動の音も、もはや聞こえない。
突如ゆるやかになった時間の中で、少女の微笑みだけが、淡く輝いていた。
その姿と重なるように、もう一人の少女が──千里が、頭から墜ちていく。
「ちーちゃんっ!!」
早瀬が走った。
京那の警告など、頭の中から消えていた。 必死に手を伸ばす。
間に合う──そのはずの軌跡が、突如乱れた。
足下に突き刺さった、二本目の鉄扇。
前のめりに倒れる視界の隅に、唇の端を吊り上げた京那の姿が、流れた。
千里は、頭から床へと墜ちていく。
「千里ちゃぁぁん!」
悲痛な声が、呼び込んだのかもしれない。
ジムに吹き込んだ、二陣の烈風を。
「根っっ性ぉぉぉーーーっ!!」
けたたましい雄叫びがスライディングで滑り込み、床まではまさに間一髪、千里を下から受け止めた。
「間に合ったっスよ!」
失神した千里を抱えた元気そうな少女が、気合いの入った笑顔で、床からびしっと親指を立てた。
シグナルを送った先は、リングに立ったフード姿の零。
そのすぐ背後からトップロープを越えた、剽悍な女性だった。
「参るっ!!」
鋭い声に振り向く間も与えず、長いポニーテール──彼女に関しては長いちょんまげと称するべきか──の女性は、トップロープを越えた跳躍を、ステップ一つで零への攻撃に転化した。
「行けぇ、雷神蹴っ!」
見守る少女の喚声とともに、長衣の後頭部に唸りを上げて叩き込まれた、迅雷の一閃。
零のフードが大きく揺れた。
「なに!?」
驚愕の叫びは、着地直後に跳んで間合いを離した、攻撃者の方から発せられた。
必殺を確信した延髄への蹴撃を、見事に紙一重でガードした右腕と、それを可能にした敵の技量。 そして何より、フードがめくれて露わになった、無感動な視線をこちらに向けた相手の顔に。
「寿、零……だとっ!?」
「ようやく主役のご登場、と。 遅かったわね、柳生さん」
京那が放った揶揄の声にも、柳生美冬は視線を動かさなかった。
かつてリングで何度も肌を合わせた、あの寿零が相手と知った今、迂闊な行動は命取りになる。
そう悟った柳生の代わりを買って出たのは、彼女の後輩で千里を助けた殊勲の人物、真田美幸だった。
「なにが、遅かったわねっスか、この犯罪者どもがっ!」
握り締めた拳にも、熱い大声にも、恐れの色は見えない。
この団体でデビューしてまだ一年半と経たない真田は、寿零というレスラーの名前すら良く知らないのだ。
もっとも、知っていたとからといって、態度を変えるような性格でもなかったが。
「さっき、後輩が柳生さんにかけてきた電話! あれでお前らの悪事はとっくに白日のもとっスよ! もう警察も呼んだから、覚悟することっスね!」
「……警察、ねぇ」
京那は、本日三代目にあたる鉄扇を肩に乗せ、薄く笑った。
「そんなのどうにでもなるわ……と言いたいところだけど、今ここに踏み込まれては、少々対応が面倒よね。 下っ端連中は融通が利かないもの」
わざとらしい大仰な溜め息から、これもオーバーアクションでジムを見渡す。
倒れた練習生たち。
リング上の零と、柳生。
歯を剥いてこちらを睨む真田。
彼女から託された千里に必死で呼びかける早瀬。
その膝に抱かれた千里に目を止めたところで、京那は扇子をぱちりと鳴らした。
「いいわ、零。 今日はここまでよ」
能面のような零の顔が、京那を向いた。
「メインディッシュは惜しいけど、ここで慌てることはないわね。 楽しみはとっておきましょう。 ──帰るわよ」
零は、微かに頷くと、フードを被りなおし、柳生に背を向けてリングを降りようとする。 柳生の足が半歩前に滑るが、それ以上は動けなかった。
「柳生さん」
その柳生に向けて、京那から声がかかった。 慇懃無礼の見本となれそうな口調だ。
「本日はこれにて失礼しますが、また折を見て伺います。 それと、ジムやこちらの皆さんには十分な賠償をさせてもらいますので、どうかご安心くださいな」
「安心っ!? なにをまた、ふざけたことを言って──」
「承知した」
怒り心頭の真田を、柳生の一言が押さえた。
「聞きたいことも言いたいことも多いが、どのみち答えてはくれまいな。 だが、承知する代わりに、二つだけ教えてもらいたい」
「何かしら?」
小首を傾げた京那の傍らに、リングを降りた零が歩み寄る。
二人を視界に収めて、柳生は一つ目の質問を口に乗せた。
「昨今、そこかしこで伝え聞くレスラー闇討ち騒動。 あれもおぬしらの仕業か?」
「ええ」
当然でしょうと言いたげな京那の返答に、真田があんぐりと口を開けた。 柳生は微かに眉をひそめたのみで、残りの質問を口にする。
「もう一つ。 ──おぬしは、何者だ?」
「ああ、そういえば。 これは申し遅れました。 わたくし、寿グループ武道関連特別顧問、寿京那と申します」
京那は、遠き日の華族もかくやと思わせる物腰で、優雅に一礼をしてみせたのだった。
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