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漆黒のダイヤモンド [4]

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「一応、名乗っておきます。 桜井千里です」

 いささかの好意も感じさせない声で、千里は自分の名を名乗った。

 正対した二人の距離は、二メートル弱。
 どちらも構えは取っていないが、いまだ顔も見えない相手の技や戦法が不明な以上、少なくとも千里にとって、油断できる距離ではない。
 いつ相手の急襲があってもおかしくない状況で、それでも千里は“一応”名乗った。
 半分は儀礼、あと半分は動かない敵の反応を見る呼び水であり、もとより返答など期待してはいなかった。
 だから、

「……ゼロ……」

 という小さな声がフードの奥から聞こえてきたとき、千里は思わず反射的に聞き返してしまった。

「ゼロ?」

「う、ん。 私の……リングネームだ、よ。 寿、零……」

 千里の殺気が、ほんの少しだけ緩んだ。
 想像していたものとは全く違う、朴訥な女性の声。
 これが、少女たちを無惨に痛めつけリング外に蹴り飛ばした、あの非情な敵のものなのか?

「よろし、く……」

 漆黒の長衣から突き出された同じ色のフィンガーグローブ、右手のそれが、ゆっくりと前に突き出された。
 ここだけは白い肌を見せる指先が開かれ、明らかに握手を求める形で止まった。
 千里の驚きと、戸惑いと、逡巡。
 それを救ったのは、リング外から鋭く投げ込まれた一言だった。

「零」

 苦々しい叱責の響きに、長衣が大きく一度、震えた。

「何をやっているの? これはボクシングやプロレスの試合じゃないわ。 “死合い”なのよ。 そのつもりでやりなさい」

 京那の手元で鉄扇が閉じられ、音を立てた。
 零のフードが揺れた。 頷いたのかもしれない。
 握手を求めた右手がゆっくりと喉元に上がり、左手は少し前方に突き出される。 右足を引いたオーソドックス・スタイルボクシングだ。

 千里もすでに、真半身に構えている。
 ジャブ、ストレート、意表をついての蹴り技まで、何が来ようと対処できる自信はあった。

「……いく、よ」

 零の身体が前へと滑り、千里も重心をわずかに移動させる。
 次の瞬間、空間が爆発した。

「っ!!」

 声にならない叫びは、早瀬が上げたものだった。
 爆風が荒れ狂った錯覚まで感じて思わず髪を押さえ、それでも目だけは閉じずに必死に前を見る。
 零が右拳を繰り出し、顔面を襲う寸前、千里が左腕でガードした。 それだけだ。
 だが、いかなる拳圧の為せる業か、千里の身体はリング中央からロープ際まで吹き飛ばされ、左腕は防いだのではなく犠牲になったというべきか、痺れて力が入らなかった。

「くぅ!」

 己を叱咤するかのように呻いた千里が真に驚愕していたのは、拳のパワーでもスピードでもなかった。
 零の初撃は、ジャブでもストレートでも、他のボクシングブローでも無い。
 ただ、無造作に殴っただけ、だったのだ。
 テクニックや駆け引きを排した、ただの暴力。 それ故に感じる絶対的な力の差底知れぬ戦慄に襲われつつ、それでも千里は前に出た。
 出ようとした。

「ふっ!!」

 千里の声か、零の声か。
 今度は教科書通りの左ストレートが千里を打ち抜き、決して教科書通りではない凄まじいパワーが、今度も寸前で間に合った右のガードをものともせずに、千里をロープまで弾き飛ばす。
 運動エネルギーは吸収されたが、慣れていないロープの反動を受けて、千里のバランスは大きく崩れた。
 つんのめった前面を痺れた両腕で何とかガードするも、拳だけでは無いと主張するかのような零のミドルキックが、空いた脇腹にめり込んだ。
 全身を駆け巡る衝撃。
 肋骨が折れなかったのが不思議なくらいの激痛の中、必死で斜め後方へ跳んだその鼻先を、唸りと共に左フックが過ぎた。
 コーナーに背をぶつけた千里の息は、早瀬がこれまで見たことが無いほど、荒かった。

「零を相手に数合持つとはなるほど、逸材ね」

 斜め後ろから早瀬に届いた京那の声には、千里への感歎と早瀬への嘲りが入り混じっていた。

「動・術・実・技、いずれも申し分なし」

 コーナーポストを揺るがす、零の右ストレート。 それを大きく沈んで躱した千里が、ロープ際を滑ってサイドへ回るや、右のローキックを走らせた。

「されど。 計・理・虚・法、いずれも遠く及ばず」

 零は、素早く踏み込んだ左脚で打点を潰すと、零距離から右のアッパーを放つ。
 千里は、避け得る体勢に無かった。

「それでは

 突き上げられた拳が、千里の顎を身体を宙に跳ね上げる。

「あの子に、勝てはしないわ」

 大きく反った身体が、ロープを遥かに越えて、弧を描いた。


 雨が、降っていた。

 白く、しかし暗い闇の世界で、無機質な光と音が、早瀬の耳から離れない。
 早鐘を打ち鳴らす鼓動の音も、もはや聞こえない。
 突如ゆるやかになった時間の中で、少女の微笑みだけが、淡く輝いていた。
 その姿と重なるように、もう一人の少女が千里が、頭から墜ちていく。

「ちーちゃんっ!!」

 早瀬が走った。
 京那の警告など、頭の中から消えていた。 必死に手を伸ばす。
 間に合うそのはずの軌跡が、突如乱れた。
 足下に突き刺さった、二本目の鉄扇。
 前のめりに倒れる視界の隅に、唇の端を吊り上げた京那の姿が、流れた。
 千里は、頭から床へと墜ちていく。

「千里ちゃぁぁん!」

 悲痛な声が、呼び込んだのかもしれない。
 ジムに吹き込んだ、二陣の烈風を。

「根っっ性ぉぉぉーーーっ!!」

 けたたましい雄叫びがスライディングで滑り込み、床まではまさに間一髪、千里を下から受け止めた。

「間に合ったっスよ!」

 失神した千里を抱えた元気そうな少女が、気合いの入った笑顔で、床からびしっと親指を立てた。
 シグナルを送った先は、リングに立ったフード姿の零。
 そのすぐ背後からトップロープを越えた、剽悍な女性だった。

「参るっ!!」

 鋭い声に振り向く間も与えず、長いポニーテール彼女に関しては長いちょんまげと称するべきかの女性は、トップロープを越えた跳躍を、ステップ一つで零への攻撃に転化した。

「行けぇ、雷神蹴っ!」

 見守る少女の喚声とともに、長衣の後頭部に唸りを上げて叩き込まれた、迅雷の一閃。
 零のフードが大きく揺れた。

「なに!?」

 驚愕の叫びは、着地直後に跳んで間合いを離した、攻撃者の方から発せられた。
 必殺を確信した延髄への蹴撃を、見事に紙一重でガードした右腕と、それを可能にした敵の技量。 そして何より、フードがめくれて露わになった、無感動な視線をこちらに向けた相手の顔に。

「寿、零……だとっ!?」

「ようやく主役のご登場、と。 遅かったわね、柳生さん」

 京那が放った揶揄の声にも、柳生美冬は視線を動かさなかった。
 かつてリングで何度も肌を合わせた、あの寿零が相手と知った今、迂闊な行動は命取りになる。
 そう悟った柳生の代わりを買って出たのは、彼女の後輩で千里を助けた殊勲の人物、真田美幸だった。

「なにが、遅かったわねっスか、この犯罪者どもがっ!」

 握り締めた拳にも、熱い大声にも、恐れの色は見えない。
 この団体でデビューしてまだ一年半と経たない真田は、寿零というレスラーの名前すら良く知らないのだ。
 もっとも、知っていたとからといって、態度を変えるような性格でもなかったが。

「さっき、後輩が柳生さんにかけてきた電話! あれでお前らの悪事はとっくに白日のもとっスよ! もう警察も呼んだから、覚悟することっスね!」

「……警察、ねぇ」

 京那は、本日三代目にあたる鉄扇を肩に乗せ、薄く笑った。

「そんなのどうにでもなるわ……と言いたいところだけど、今ここに踏み込まれては、少々対応が面倒よね。 下っ端連中は融通が利かないもの」

 わざとらしい大仰な溜め息から、これもオーバーアクションでジムを見渡す。
 倒れた練習生たち。
 リング上の零と、柳生。
 歯を剥いてこちらを睨む真田。
 彼女から託された千里に必死で呼びかける早瀬。
 その膝に抱かれた千里に目を止めたところで、京那は扇子をぱちりと鳴らした。

「いいわ、零。 今日はここまでよ」

 能面のような零の顔が、京那を向いた。

「メインディッシュは惜しいけど、ここで慌てることはないわね。 楽しみはとっておきましょう。 帰るわよ」

 零は、微かに頷くと、フードを被りなおし、柳生に背を向けてリングを降りようとする。 柳生の足が半歩前に滑るが、それ以上は動けなかった。

「柳生さん」

 その柳生に向けて、京那から声がかかった。 慇懃無礼の見本となれそうな口調だ。

「本日はこれにて失礼しますが、また折を見て伺います。 それと、ジムやこちらの皆さんには十分な賠償をさせてもらいますので、どうかご安心くださいな」

「安心っ!? なにをまた、ふざけたことを言って

「承知した」

 怒り心頭の真田を、柳生の一言が押さえた。

「聞きたいことも言いたいことも多いが、どのみち答えてはくれまいな。 だが、承知する代わりに、二つだけ教えてもらいたい」

「何かしら?」

 小首を傾げた京那の傍らに、リングを降りた零が歩み寄る。
 二人を視界に収めて、柳生は一つ目の質問を口に乗せた。

「昨今、そこかしこで伝え聞くレスラー闇討ち騒動。 あれもおぬしらの仕業か?」

「ええ」

 当然でしょうと言いたげな京那の返答に、真田があんぐりと口を開けた。 柳生は微かに眉をひそめたのみで、残りの質問を口にする。

「もう一つ。 おぬしは、何者だ?」

「ああ、そういえば。 これは申し遅れました。 わたくし、寿グループ武道関連特別顧問、寿京那と申します」

 京那は、遠き日の華族もかくやと思わせる物腰で、優雅に一礼をしてみせたのだった。


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