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漆黒のダイヤモンド [3]

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 少し余裕を取ったため、二人がジムに戻ったのは約束の時間よりも随分と前だった。

「あれ?」

「どうしました?」

「なんか、鍵がかかってるみたい」

 入口の引き戸に手を掛けた早瀬が、困惑顔で千里に言った。
 扉の小窓は曇りガラスで見通せないが、明かりがついていることだけはわかる。 建てつけの問題かと千里も手を貸し、二人で力を入れてみるが、そういうわけでも無さそうだ。

 二人は顔を見合わせ、それから早瀬が、扉の向こうに呼びかけた。

「あのー、早瀬ですけど。 開けてもらえますかー?」

 応答は、すぐにあった。
 二人のどちらも予想だにしなかった応答苦痛と恐怖に満ちた、少女の悲鳴が。

「早瀬さんっ!」

「うんっ!!」

 こちらを見た千里に、頷きを返したのも一瞬。 早瀬は一歩下がって半身になるや、鋭い呼気から左の横蹴りを放った。
 合わせ鏡の如く同じ姿勢から放たれた千里の右脚とともに、直線を描いた衝撃が二つ同時に扉を貫いた。
 引き戸は吹き飛びこそしなかったが、扉同士を固定しただけの簡素な錠はひとたまりもなく、揺らいだ戸に千里が手を掛けて力任せに引くと、意外なほど素直に滑って、派手な戸当たり音を響かせる。
 その音が大気を震わせているうちに、二人は室内に飛び込んで驚愕がその足を止めた。

 ほぼ中央に位置する、練習用の簡易リング。
 それを囲うかのように四方に倒れ、ぴくりとも動かない人影は、ちょうど四つ。 いずれもこのジムの練習生たちだ。
 五人の練習生、残り一人の姿は、マット上にあった。
 背にしたコーナーポストを今まさにずり落ちていく日焼けした小柄な身体には、かけらほどの生命感も見当たらない。
 その手から、リングという舞台にはそぐわない無機質な物体携帯電話が滑り落ちた。
 警察か他の誰かへ助けを求めようとしたのか、そうだとすればそれは成功したのか。
 少なくとも今すぐにそれを確かめることは、誰にもできなくなった。

 無慈悲に携帯電話を踏みつけ粉砕した、黒いリングシューズの持ち主頭から漆黒の長衣を纏った人物によって。


「一体これは……」

 千里の呟きは届かなくても、二人の登場にはとうに気付いているはず。
 しかし長衣姿は一顧だにすることなく、かつて携帯電話だった物をリング外へと蹴り飛ばすと、ゆっくりと足を進めて、もう一つの物体をも、凄まじい力でリングの外まで蹴り飛ばした。
 おそらくは自らが打ち倒したであろう、五人目の少女の身体を。

「なっ!」

 きらきらと輝く瞳で、早瀬を見つめていた少女たち。
 部外者で無愛想な自分にも、笑顔で接してくれた少女たち。
 一瞬だけ見開かれた千里の目が、すうっと細められた。
 瞳の奥に湛えた激情の命ずるまま、傍らで同じく怒りに身を震わせる早瀬とともに、リングへと一歩を踏み出し

「早瀬さん?」

 早瀬は、身を震わせたまま動かなかった。
 振り返った千里が思わず息を止めたほど、表情は凍りついて、血の気が無い。
 震わせているのではなく、震えてしまっている身体。 その身体を自らの腕で抱くようにして、早瀬は見てはいけない深淵を覗いてしまった者の声で喘いだ。

「なんで……どうして、ここに……」

「……早瀬、さん?」

「そうそう早瀬さんよね。 ようやく思い出せたわ」

 あさっての方向から聞こえてきた声に、はっと千里が目を向けた。

 彼女にとって微妙に死角となっていた、入り口側左手の隅。
 壁から身を離した女性が優雅な会釈を見せると、流れるような黒髪が差し込む光に揺れて、艶やかに絢をなした。

「お久しぶりね。 早瀬葵さんでよかったかしら。 こんなところで鉢合わせるとは思っていなかったから、思い出すのに時間がかかってしまったの。 悪かったわね?」

 口元にあてがわれた扇子が、ぱちりと鳴った。
 黒を基調とした控えめな意匠は高級感を感じさせるが、女性の手には少々余り気味の武骨さが、ただの工芸品でないことを示していた。
 鉄扇だ。

「寿……京那……」

 ことぶき、けいな。
 早瀬の虚ろな呟きを聞き取った千里と、女性京那の目が合った。
 京那がにこやかに目を細める。
 敵意のかけらも感じられない、天与の美貌に裏付けられた、品のある微笑み。
 なのに、千里の背筋には冷たいものが走った。

「その子は初顔だけど、さしずめ候補者の一人といったところかしらね、早瀬さん」

 候補者?
 千里は、目だけを早瀬の方に送った。 震えは治まってきているようだが、受け答えができそうな顔色にも見えない。
 京那は、気にすることなく続けた。

「柳生さんにも目をつけたとはさすがだけれど、こちらもただ待っているつもりは無くってね。 そろそろ現役選手を中心に、目ぼしい相手を漁っていくことにしたの。 強いと評判のストライカーを、ね」

 次は、強いストライカーを連れてきなさいな。

 目の前の顔が、かつて早瀬に告げた言葉。
 早瀬の身体が、はた目にもわかるほど大きく、びくりと震えた。
 それを見て、京那が、あら、という形に口を動かした。 ようやく、早瀬の様子がおかしいことに気付いたらしい。

「大丈夫? 顔色が悪いわよ、早瀬さん。 どうかしたの……っと。 ああ、これはショックよね。 気が付かなかったわ、ごめんなさい」

 突然、得心がいったというように表情を変えた京那が、口元の鉄扇を広げた。 細めた目だけを二人に見せて、

「そうよねえ。 この子が行きがけの駄賃に全員片付けちゃって、あなたが駆けつけた時には、辺りはもう血まみれの死屍累々。 今の光景は、中森さんの……あなたの団体の時と、同じですものね?」

 微かだが明らかに嘲弄の混ざった響き。 小さく息を吐いた京那が、鉄扇を少し下げた。

「あなたが愛した仲間たちを、この子が残らず叩き伏せた時。 そう、あの

 早瀬の瞳に、京那の笑みが映る。

あの、どうしようもなく弱っちい、身の程知らずなクズどもをね?」

 この上ない、侮蔑の笑みが。

「京那ぁ!!」

 早瀬が、弾丸の勢いで地を蹴った。
 薄笑いを浮かべた京那が、すかさず右手を引く。
 鈍く光る鉄扇が、目には見えない投擲のレールを高速で滑っていき、しかし射出の寸前、急制動を掛けられた。

「千里ちゃん!?」

 京那の投擲を止めたのは、飛び出そうとした早瀬の前にかざされて行く手を阻んだ、千里の右手だった。

「千里ちゃん! 邪魔を

「とんだ食中毒ですね」

 京那を見つめたまま千里が放った一言に、早瀬は抗議の声を呑み込んだ。
 嘘が一つ、ばれたのだ。

「……千里ちゃん。 あの……」

「気にしていません。 それに、もう一つ、わかりました」

「え?」

 もう早瀬の激発は無いと判断したのか、千里の右手が下がった。 視線も京那から外されて、リングの方を向く。
 こちらを見るでもなくリング中央でたたずむ、長衣の人物の方を。

「あれが、強い人を探していた理由。 いえ、目的ですね」

「え?」

 早瀬二度目の「え?」は、翻った長いポニーテールに当たって消えた。
 颯爽とリングへ駆ける千里の凛々しい背に、思わず見とれたのも数秒。 トップロープを掴んで跳んだ千里が、華麗にリング内へと降り立った時、

「千里ちゃん!? ダメェっ!!」

 駆け寄ろうとした早瀬の足下に、鋭い風切り音が突き刺さった。

「駄目なのはあなたよ、早瀬さん」

 クッションフロアを切り裂いた鉄扇の姿に、早瀬は歯噛みした。

「あの子の身のこなし、私もなかなかに興味があるの。 もし邪魔をすれば……わかっているでしょう?」

 脅しだと断じて走る手もある。 しかし、余人は知らず、相手は寿京那だ。
 背後から自分に鉄扇を突き立てることに何の躊躇も無いことが、確かに早瀬にはわかっていた。

「あなたに悪い話ばかりでもないはずよ。 もしもあの子が勝てば、あなたの満願は晴れて成就。 めでたしめでたし、じゃないかしら?」

 予備があるのか、同じ鉄扇で口元を隠して、くすくすと笑う京那。
 千里の勝つ可能性など全く信じていない彼女を、早瀬は殺意すら込めた目で睨みつけてから、リング上に視線を戻した。
 その目は、祈りを込めたものに変わっていた。

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本章あとがき


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