少し余裕を取ったため、二人がジムに戻ったのは約束の時間よりも随分と前だった。
「あれ?」
「どうしました?」
「なんか、鍵がかかってるみたい」
入口の引き戸に手を掛けた早瀬が、困惑顔で千里に言った。
扉の小窓は曇りガラスで見通せないが、明かりがついていることだけはわかる。 建てつけの問題かと千里も手を貸し、二人で力を入れてみるが、そういうわけでも無さそうだ。
二人は顔を見合わせ、それから早瀬が、扉の向こうに呼びかけた。
「あのー、早瀬ですけど。 開けてもらえますかー?」
応答は、すぐにあった。
二人のどちらも予想だにしなかった応答──苦痛と恐怖に満ちた、少女の悲鳴が。
「早瀬さんっ!」
「うんっ!!」
こちらを見た千里に、頷きを返したのも一瞬。 早瀬は一歩下がって半身になるや、鋭い呼気から左の横蹴りを放った。
合わせ鏡の如く同じ姿勢から放たれた千里の右脚とともに、直線を描いた衝撃が二つ同時に扉を貫いた。
引き戸は吹き飛びこそしなかったが、扉同士を固定しただけの簡素な錠はひとたまりもなく、揺らいだ戸に千里が手を掛けて力任せに引くと、意外なほど素直に滑って、派手な戸当たり音を響かせる。
その音が大気を震わせているうちに、二人は室内に飛び込んで──驚愕がその足を止めた。
ほぼ中央に位置する、練習用の簡易リング。
それを囲うかのように四方に倒れ、ぴくりとも動かない人影は、ちょうど四つ。 いずれもこのジムの練習生たちだ。
五人の練習生、残り一人の姿は、マット上にあった。
背にしたコーナーポストを今まさにずり落ちていく日焼けした小柄な身体には、かけらほどの生命感も見当たらない。
その手から、リングという舞台にはそぐわない無機質な物体──携帯電話が滑り落ちた。
警察か他の誰かへ助けを求めようとしたのか、そうだとすればそれは成功したのか。
少なくとも今すぐにそれを確かめることは、誰にもできなくなった。
無慈悲に携帯電話を踏みつけ粉砕した、黒いリングシューズの持ち主──頭から漆黒の長衣を纏った人物によって。
「一体これは……」
千里の呟きは届かなくても、二人の登場にはとうに気付いているはず。
しかし長衣姿は一顧だにすることなく、かつて携帯電話だった物をリング外へと蹴り飛ばすと、ゆっくりと足を進めて、もう一つの物体をも、凄まじい力でリングの外まで蹴り飛ばした。
おそらくは自らが打ち倒したであろう、五人目の少女の身体を。
「なっ!」
きらきらと輝く瞳で、早瀬を見つめていた少女たち。
部外者で無愛想な自分にも、笑顔で接してくれた少女たち。
一瞬だけ見開かれた千里の目が、すうっと細められた。
瞳の奥に湛えた激情の命ずるまま、傍らで同じく怒りに身を震わせる早瀬とともに、リングへと一歩を踏み出し──
「早瀬さん?」
早瀬は、身を震わせたまま動かなかった。
振り返った千里が思わず息を止めたほど、表情は凍りついて、血の気が無い。
震わせているのではなく、震えてしまっている身体。 その身体を自らの腕で抱くようにして、早瀬は見てはいけない深淵を覗いてしまった者の声で喘いだ。
「なんで……どうして、ここに……」
「……早瀬、さん?」
「そうそう──早瀬さんよね。 ようやく思い出せたわ」
あさっての方向から聞こえてきた声に、はっと千里が目を向けた。
彼女にとって微妙に死角となっていた、入り口側左手の隅。
壁から身を離した女性が優雅な会釈を見せると、流れるような黒髪が差し込む光に揺れて、艶やかに絢をなした。
「お久しぶりね。 早瀬葵さん──でよかったかしら。 こんなところで鉢合わせるとは思っていなかったから、思い出すのに時間がかかってしまったの。 悪かったわね?」
口元にあてがわれた扇子が、ぱちりと鳴った。
黒を基調とした控えめな意匠は高級感を感じさせるが、女性の手には少々余り気味の武骨さが、ただの工芸品でないことを示していた。
鉄扇だ。
「寿……京那……」
ことぶき、けいな。
早瀬の虚ろな呟きを聞き取った千里と、女性──京那の目が合った。
京那がにこやかに目を細める。
敵意のかけらも感じられない、天与の美貌に裏付けられた、品のある微笑み。
なのに、千里の背筋には冷たいものが走った。
「その子は初顔だけど、さしずめ候補者の一人といったところかしらね、早瀬さん」
候補者?
千里は、目だけを早瀬の方に送った。 震えは治まってきているようだが、受け答えができそうな顔色にも見えない。
京那は、気にすることなく続けた。
「柳生さんにも目をつけたとはさすがだけれど、こちらもただ待っているつもりは無くってね。 そろそろ現役選手を中心に、目ぼしい相手を漁っていくことにしたの。 強いと評判のストライカーを、ね」
──次は、強いストライカーを連れてきなさいな。
目の前の顔が、かつて早瀬に告げた言葉。
早瀬の身体が、はた目にもわかるほど大きく、びくりと震えた。
それを見て、京那が、あら、という形に口を動かした。 ようやく、早瀬の様子がおかしいことに気付いたらしい。
「大丈夫? 顔色が悪いわよ、早瀬さん。 どうかしたの……っと。 ああ、これはショックよね。 気が付かなかったわ、ごめんなさい」
突然、得心がいったというように表情を変えた京那が、口元の鉄扇を広げた。 細めた目だけを二人に見せて、
「そうよねえ。 この子が行きがけの駄賃に全員片付けちゃって、あなたが駆けつけた時には、辺りはもう血まみれの死屍累々。 ──今の光景は、中森さんの……あなたの団体の時と、同じですものね?」
微かだが明らかに嘲弄の混ざった響き。 小さく息を吐いた京那が、鉄扇を少し下げた。
「あなたが愛した仲間たちを、この子が残らず叩き伏せた時。 そう、あの──」
早瀬の瞳に、京那の笑みが映る。
「──あの、どうしようもなく弱っちい、身の程知らずなクズどもをね?」
この上ない、侮蔑の笑みが。
「京那ぁ!!」
早瀬が、弾丸の勢いで地を蹴った。
薄笑いを浮かべた京那が、すかさず右手を引く。
鈍く光る鉄扇が、目には見えない投擲のレールを高速で滑っていき、しかし射出の寸前、急制動を掛けられた。
「千里ちゃん!?」
京那の投擲を止めたのは、飛び出そうとした早瀬の前にかざされて行く手を阻んだ、千里の右手だった。
「千里ちゃん! 邪魔を──」
「とんだ食中毒ですね」
京那を見つめたまま千里が放った一言に、早瀬は抗議の声を呑み込んだ。
嘘が一つ、ばれたのだ。
「……千里ちゃん。 あの……」
「気にしていません。 それに、もう一つ、わかりました」
「え?」
もう早瀬の激発は無いと判断したのか、千里の右手が下がった。 視線も京那から外されて、リングの方を向く。
こちらを見るでもなくリング中央でたたずむ、長衣の人物の方を。
「あれが、強い人を探していた理由。 いえ、目的ですね」
「え?」
早瀬二度目の「え?」は、翻った長いポニーテールに当たって消えた。
颯爽とリングへ駆ける千里の凛々しい背に、思わず見とれたのも数秒。 トップロープを掴んで跳んだ千里が、華麗にリング内へと降り立った時、
「千里ちゃん!? ダメェっ!!」
駆け寄ろうとした早瀬の足下に、鋭い風切り音が突き刺さった。
「駄目なのはあなたよ、早瀬さん」
クッションフロアを切り裂いた鉄扇の姿に、早瀬は歯噛みした。
「あの子の身のこなし、私もなかなかに興味があるの。 もし邪魔をすれば……わかっているでしょう?」
脅しだと断じて走る手もある。 しかし、余人は知らず、相手は寿京那だ。
背後から自分に鉄扇を突き立てることに何の躊躇も無いことが、確かに早瀬にはわかっていた。
「あなたに悪い話ばかりでもないはずよ。 もしもあの子が勝てば、あなたの満願は晴れて成就。 めでたしめでたし、じゃないかしら?」
予備があるのか、同じ鉄扇で口元を隠して、くすくすと笑う京那。
千里の勝つ可能性など全く信じていない彼女を、早瀬は殺意すら込めた目で睨みつけてから、リング上に視線を戻した。
その目は、祈りを込めたものに変わっていた。
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