「すまぬな」
「えっ?」
町の小さな診療所。
他に誰もいない薄暗い待合室で、硬いソファに腰を下ろした早瀬は、傍らの壁に立つ柳生を見上げた。
「あの。 もっと早く戻ってきていれば、という話なら、もう……」
「そちらではない。 うちの練習生で救急車を占拠してしまったことが、だよ」
「ああ……」
早瀬はやんわりと、少し気恥ずかしそうに微笑んだ。
京那と零が去った後、ジムは警察と負傷者への対応に追われた。
そんな中、千里は無事に意識を取り戻して早瀬らを安堵させたが、ここで「病院へ」と言い張る早瀬と、「大丈夫」と言い張る千里の衝突が、にわかに勃発。
双方譲らずで、間に入った真田をオロオロさせた挙句、人数的に全員が救急車に乗れないことも判明したため、柳生の提案で『念のため近所の医者に診てもらうこと』で落ち着いたのだった。
「でも、ごめんね。 柳生さんにまでこっちについてきてもらって。 本当は、みんなの傍にいてあげたかったんじゃないの?」
「ジムの人間は他にもいるし、なにより真田が付き添っている。 あやつはあれで、面倒見のいい奴だよ」
「……そうだね」
その真田がいなければ、千里は大怪我を負っていた可能性が高い。 あとでちゃんとお礼を言わなきゃね、と早瀬は心の中で頭を下げた。
「まあ、桜井千里といったか。 あの者も、あれだけ元気であれば心配は要るまいな。 心配なのはむしろ、あなたの方だ」
「私? 私は……元気だよ?」
「団体の仲間の仇を、取れなくてもかな?」
今日の夕食メニューでも尋ねるような口調での問いに、早瀬は息を引いた。
「あなたの団体を襲った凶事のことは、噂で聞いている。 一連の闇討ち騒動、その中でもひときわ大きな話であったのでね」
柳生は、壁から身を離すと、早瀬の前を横切った。
「そんな中、あなたが私に会いに来ると聞いた時は、正直首を傾げたものだよ。 よもや、寿零を倒せる人間を捜してのこととは、思わなかった。 ──勘違いなら、そう言ってほしい」
早瀬の沈黙は、否定にも肯定にも取れた。
その隣に柳生は腰を下ろした。
「光栄な人選だが──私でも、今のあやつには勝てまい」
吐胸をつかれた表情で、早瀬が柳生を見た。
柳生の目は斜め上、微かな風を吹かせている業務用エアコンに、淡い焦点を合わせていた。
「今日は刹那の手合わせであったが、それでもはっきりとわかった。 あやつの力量は、かつてリングで戦った時のそれを、遥かに凌駕しているとな。 まるで別人……いや、あれは本当に、寿零なのか?」
「柳生さん……?」
「私は、よく覚えているのだよ。 零のことをな……」
柳生の脳裏に、カクテルライトの下で躍動する零の姿が甦った。
無口で無表情、それは今日出会った零とも変わらない。
しかしそれだけに、瞳の輝きや、時折近しい人間に見せる穏やかな笑顔は、一時期に比べて低迷する女子プロレス界の未来を背負うとまで言われた闘いぶり以上に、柳生の記憶に焼きついていた。
「柳生さん……」
「いや。 つまらぬことを言ってしまったな」
柳生は、いつの間にか閉じてしまっていた瞼を開いた。 自分を見つめる早瀬に、その目を合わせる。
「あれが誰であれ、あやつらの所業は放っておけん。 私も微力ながら協力させてもらいたい。 ──どうすれば止められるかの検討はつかぬがな」
「……勝つことが、できれば」
「勝つ? 寿零に、か?」
「あの人、寿京那は、私に言ったの。 強いストライカーを連れてこいって。 零に勝てれば、全てを終わりにできるって」
「ふむ」
柳生は、曲げた指を自分の顎先に添えた。
復讐を餌に高いレベルの相手を集めさせ、零を鍛えたいということなのか。 京那の思惑や目的に見えない点は多かったが、ともあれ、他に当てがないことも確かではあった。
「敵の言を信じることにはなるが、今はそれしかあるまいか。 しかし、零に勝てる相手というだけでも、検討がつかんところではあるな。 早瀬さんには当てがあるのか?」
「ううん。 柳生さん以上の人は、もう一人も」
「となれば、イバラの道だぞ。 外国人選手を探すか、他の武術団体を当たるか、だが」
「私が、勝ちます」
二人を振り向かせた三つめの声は、何の気負いも感じさせないほどに静かで、落ち着き、そして澄み渡っていた。
診察室のドアを開けて、千里が立っていた。
小さな湿布を貼られた両腕と頬、そして心なしか赤く腫らした目の他は、いつもと変わらぬ姿を見せて。
「おぬし……」
「千里ちゃん! 怪我の方は──!?」
「私が、あの人に勝ってみせます」
腰を上げた二人の声も聞こえぬげに、千里は繰り返した。
少しだけ言葉が変わったせいなのか、声にも少しだけ変化があった。
わずかに溢れた、熱さと、波立ち──それは、決意だったのかもしれない。
「今よりも、もっと強く……本当の強さを、手に入れて」
ドアを通り抜けた千里の拳は、ただ固く握り締められていた。
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