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Heartful Voice 〜 In my hope of it reaching you 〜 [2]

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 あの、早瀬です。
 ……あはは、近くにいるのに留守電なんて、なんか緊張しちゃうな。
 えっと、こんなときにごめんね、千里ちゃん。
 でも、こんなときだからこそ、どうしても千里ちゃんに話しておきたかったんだ。


 早瀬がタクシーを降りたのは、この街では唯一とも言える最高級ホテルだった。
 普段なら場違いさに気後れするであろう豪奢なロビーに臆せず入っていくと、すぐさま丁重な挨拶とともに制服に身を包んだ壮年男性が近づいてきた。
 これから早瀬と会う相手が手筈を整えていたのか、二言三言話しただけで心得顔の男に案内され、早瀬はエレベータホールへと向かった。
 途中、濡れた髪や身体のためかタオルを渡されたところで、その早瀬を追うように、ロビーに足を踏み入れた人影が一つ。
 ドアマンが上品な会釈の中に微かな不審の色を漂わせるのを足早に無視して、人影伊達は、早瀬の背を用心深く見つめながら、携帯電話を取り出した。


 前に、私が話せなかったこと。
 千里ちゃんが私に訊いたことと、私が千里ちゃんに聞いてもらいたいこと。
 全部、千里ちゃんには話しておきたかったの。


 早瀬の乗ったエレベータが最上階で止まったことを確認してから、伊達も近くのエレベータに乗り込んだ。 最高級スイートで占められたフロアが丸ごと貸し切られていることなど知らず、ボタンを押して最上階へと二十人乗りの巨大な箱を向かわせる。
 わずかに身体が押さえつけられるような感覚の中、伊達は携帯電話を開くと、すでに書きかけていたメールを完成させていった。


 まずはやっぱり、あのことかな。
 ほら、喫茶店で、誰かのあだ名かって聞いてくれたこと。
 あの時の私、すっごくおかしな顔しちゃったんだよね。
 千里ちゃんが心配して、話を終わらせようとしてくれたぐらいだもん。

 ……ごめんね、千里ちゃん。
 千里ちゃんまで傷つけちゃったこと、ずっと気になってたの。
 あの子のことちーちゃんのことで、ね。


 電子音とともにエレベータのドアが開くと、伊達は特殊部隊の隊員さながらに周囲を警戒してから、自らの色彩で高級感を主張するカーペットへと足を踏み入れた。
 広く絢爛な廊下には、早瀬はおろか誰の姿も見えない。
 まずはエレベータから見て左を向き、しばらく先で行き止まりになっていることを見て取ると、右に向き直った。
 伊達の端正な顔が、たちどころに驚愕と緊張で強張った。
 確かに誰もいなかったはずの廊下、その中央に一つの影が立っている。
 まるでずっと以前から伊達を待ち受けていたかのような不動の姿勢に、頭からすっぽりと漆黒の長衣を纏って。
 音も無く半身の構えを取った伊達の肩から、小ぶりなバッグが滑り落ちた。


 ちーちゃんはね、私の妹なの。
 歳はちょっとばかり、離れてて。
 子供の頃は、何かあったらすぐ大声で泣いて。
 大きくなったら、しょっちゅう喧嘩して、けっこう素直じゃなくって。
 でもすっごく懐いてくれて、笑ってくれて。
 いつも私と一緒だった、世界で一番一番大好きで大切な、私の妹なんだよ。


 早瀬が通された一室は、リビングだけでも彼女の実家より遥かに広い、最高級のスイートルームだった。
 見る人が見れば、うっとりと息をつきそうな調度品。 それらが取り揃えられた空間を贅沢にも独り占めしておきながら、アンティークらしき椅子に一人座った早瀬は、ただ自分の足元だけを見つめていた。


 あ、大好きだったのは、私だけじゃなかったかな。
 家族も、友達も、ちーちゃんは、みんなから愛されてたもん。
 私が、ちょっと妬いちゃうくらいにね。
 でもひょっとすると、愛されすぎちゃったのかもしれない。
 それで、天の神様にまで、愛されちゃったのかもしれないね。


 うつむいた早瀬の姿は、病院の待合スペースでのものとよく似ている。 しかしそこには、一つだけ決定的に異なる要素が存在していた。
 レスラーとして共に闘ってきた仲間たちであれば、気が付いたことだろう。
 控室でリングに向かう時を待つ、まさにその時と同じ色を湛えた、早瀬の瞳に。


 ちーちゃんの名前はちさと。
 早瀬、千里。
 千里ちゃんとおんなじ名前で、今はもう天国に行っちゃった、私の妹なんだよ。


 鈍い、なのにどこか鋭くもある音が、互いの身体を軋ませた。
 そこにどちらのものか歯ぎしりの響きが加わった時、向かい合った二人零と伊達は、同時に後方へと跳んでいた。
 零だけは、着地と同時にもう一回後ろへ跳ね、空中で身を捻って重い長衣を一気に脱ぎ捨てた。
 これまでの戦いでは、一度たりとも必要としなかった行為。
 それを零にさせた相手は、彼女の想定をもなお超えるスピードで、予想着地点へと風を巻いて肉薄した。
 着地と同時にかろうじて躱した伊達の膝蹴りが、どれほどの威力を秘めていたのか。 零の額に浮かんだ汗の珠だけが、知っていた。


 私のウチはね、あんまりお金が無かったの。
 ちーちゃんが子供の頃、すごく難しい名前の病気にかかってあ、全然そんな風に見えないくらい、元気だったよ?
 だけどね、お薬代とか高くって、手術なんてとてもじゃないけど無理だった。
 私がプロレスラーになって、何とかお金を稼げるようになっても。
 ちーちゃんが……高校生になったちーちゃんが、学校で急に倒れちゃっても……ね。


 空気が伊達の頬を叩いた。
 直角を描いてこめかみを襲う黒いフィンガーグローブを、伊達は仰け反って避ける。
 前髪が逆立ち、蹴りもかくやという風圧ゆえか、伊達のバランスが崩れた。
 崩れたままに床を蹴って、後ろへと逃れる。 零が平然とそれについて来るのを見越して、カウンター狙いの足刀を繰り出す。
 空を切った。
 ぞくり、と凍った背すじの命ずるまま、伊達は夢中で肘を打った。 背後に。
 骨の打ち合わさる音が鳴った。
 相手の肘を肘で相殺することには成功したが、零がいつの間に後ろへ回ったのか、伊達にはわかっていなかった。


 だからね、京那が言ったことは、全部ホントなんだよ。
 きっと京那は、千里ちゃんにも言っちゃってるよね。
 全部、お金のためだって。
 それはね、そうなの。 その通りなの。
 団体のお金を盗もうとしたのも、京那の誘いに乗ったのも。
 中森さんや那月ちゃんたちが酷い目にあったのも、それでも止められずに強い人を探したのも、柳生さんたちを巻き込んだのも。
 みんな、お金のためだったんだ。
 みんなみんな、私のせいだったんだよ。


 早瀬が案内された部屋とほぼ同じ作りの一室で、寿京那はソファに深く腰掛けて優雅にワイングラスを遊ばせていた。
 グラスは空。 飲み干したのではない証拠に、ワインクーラーに入ったままの白は、封も切られていない。
 お酒よりももっと美味しいものを楽しんでいるの、とでも言いたげに陶然と酔った瞳、その先には、大画面の薄型テレビが置かれていた。
 画面の左右に分割されて鮮明に映っているのは、身じろぎもしない早瀬の姿と、激しい動きで無音の死闘を演じている、零と伊達の姿だった。


 軽蔑……したよね。 私のこと。
 でもね、悪いことだとか、思わなかったよ。
 他に方法なんて、なかったから。
 ううん、そうじゃない……そんなの、どうでもよかったんだ。
 だって、あんなことまでして、お金を手に入れて、手術したのに。
 それなのに、あの雨の日……ちーちゃんは、帰ってきてくれなかったんだもん。
 私は、ひとりぼっちになっちゃったんだもん。
 もうどうでもいい、みんなどうなったっていいって、ずっとそう思ってたんだ。


 モニタの中の早瀬と、目が合った。
 そんな気がして、京那は少しばかり焦る。
 こちらを見上げる早瀬の姿に、カメラを気付かれたかと思ったのだ。
 しかし、京那の危惧をよそに、早瀬はただカーテンの開け放たれた暗い窓を見つめていた。 自らの姿がぼんやりと滲む、濡れた窓の向こう側を。


 あの日……あの月の夜。 千里ちゃんと出会うまではね


 雨は激しく降り続いており、月など見えるはずもない。 赤みがかった瞳は、暗い闇を哀しいくらい忠実に映し出していた。
 早瀬の唇が、何か短い言葉を紡いだ。
 京那は身を乗り出して唇の動きを見つめたが、読唇術に長けているわけでもない彼女には、早瀬の呟きを読み取ることはできなかった。


 なんでかな。
 あの時ね、私、千里ちゃんのことが、天使に見えたんだよ。
 きっと、ちーちゃんが私のために呼んでくれたんだ、なんて思っちゃった。
 ひょっとして、私も連れてってくれるかも……って。
 だけど、その天使さんが、ちーちゃんと同じ千里って名前だって聞いて、私


 早瀬が席を立った。
 モニタ越しに覗き見を楽しむ京那の眉が寄るが、特に劇的な展開も無いまま、早瀬はパウダールームへと向かった。
 京那はリモコンを操作して、カメラを切り替える。
 しかし、パウダールームにまでカメラは取り付けられていないのだろう。 早瀬の姿はモニタから消え、京那はおよそ上品とは言いがたい仕草を一つすることになった。
 舌打ちである。


 私ね、ちーちゃんが怒ってるって、思ったの。
 ちーちゃんが千里ちゃんになって、みんなに酷い事してる私を、叱りに来たんだって。
 おかしいよね。 そんなこと、どう考えてもあるわけないのにね。
 千里ちゃん、叱るどころか私を助けてくれたもん。
 ちーちゃんと千里ちゃん、全然似てないしね。
 なのに私、千里ちゃんのこと何度も、ちーちゃん……って思っちゃったんだ。


 悪趣味と言えそうなほどの装飾を施された蛇口を思い切りひねると、たちまちお湯の奔流とともに、白い湯気がその姿を現した。
 薄い乳白色に支配されつつある鏡の前で、早瀬は両手にお湯を溜めて、顔を洗った。 何度かそれを繰り返し、びしょ濡れになった顔のままで洗面台に手をついた。 湯気の中で、溜め息にも似た吐息が口から漏れる。
 しばらくそのままで居て早瀬は不意に顔を上げた。
 掛けられたタオルを一気に引っ張り、抜き取る。 いささか乱暴に、顔を拭いた。


 だけど。
 だけどね。
 私は、そんなちーちゃんのことも、巻き込んじゃった。
 私を叱りに来てくれたのに、私の代わりに戦ってくれたのに。
 私は何にもしなくて、できなくて、もっともっと酷いことになっちゃった。
 それなのに、私一人だけ、元気で、ピンピンしててっ。 みんなが怪我して、苦しんじゃってるのに、でもどうしたらいいかもわからなくて


 零の首筋を目がけて唸る、伊達の手刀。
 狙い違わず薙いだ相手が残像だったと気がついた時には、既に伊達の左側へと零が回り込んでいた。
 左拳をフェイントに、鋭い右の振り足が、伊達の脚を砕くべく襲い掛かる。
 回避は不可能と判断するや、黒い牙が突き立つ寸前に伊達が浮かせた片脚が、骨をも砕くはずの衝撃をゼロに近いレベルまで軽減させ、さらにその威力を回転に変えて、ステップ一つでソバットを放った。
 思わぬ反撃に追撃を封じられ、零は大きく斜め後方に跳んだ。
 着地してさらに後退した零も、一回転して態勢を整えた伊達も、とうにその息は荒い。

 実力伯仲、カクテルライトの下での試合を万人が願う二人の静かなる死闘にも、確実に終わりの時が近づいていた。
 長い呼吸で、零が息を整える。
 伊達も、深く吸った息を静かに吐き出して吐き切らぬうちに、呼吸が止まった。

 違和感。

 そんな生易しいものではなかった。
 数メートル前方、確かに零はそこに存在している。 それなのに、伊達の極限まで研ぎ澄まされた感覚は、その存在が無い、あるいは限りなく希薄だと、そう伝えて来ていた。

 零が、地を蹴った。

 達人であればあるほど、無意識であっても、気配というものを利用する。 音や空気の流れはもちろん、目の動き、筋肉への力の伝わり、技の起こり、それらを第六感にも近い感覚でも捉え、相手の動きを察し、見切り、対応する。
 しかし、今の零の動きには、伊達をもってしてもそれらが何一つ捉えられなかった。
 ゼロその名を持つ者が一足一刀の間合いに迫るまで反応すらできずに接近を許し、それでも伊達は、半歩下がって迎撃の態勢を取った。
 カウンターのトラースキックを、これだけは零を捉え続ける視覚だけを頼りに放つ。
 瞬間、零の姿が消失した。


 ……ごめんね。
 ごめんね、ちーちゃん。
 だからもう、千里ちゃんは何も心配しなくていいんだよ。
 私なんか、みんな失くしちゃった私なんか、どうなったっていいんだから。
 私が悪いから。 私がみんな、終わらせてくるから。
 だから


 伊達の顔が絶望の色を刷く前に、その身体は宙を舞っていた。
 景色が零の姿が、残像になる。
 神速の回転からの、神速のバックナックル。 伊達の蹴りを躱しつつ放たれた、攻防一体の一撃。

 とある絢爛豪華な一室で、艶やかな女性が長い黒髪をかきあげた。

「サイレントナックル。 完成、ね」

 届かないその声はもちろん、自分の身体が壁に激突して崩れ落ちることさえ、伊達が自らの思考で認識することはなかった。


 さよなら。
 今までずっと、ありがとう、ちーちゃん


 メッセージを伝え終えた携帯電話を耳から離して、千里は終話ボタンを押した。 無言のまま見つめた小さな機械が、待ち受け用の画面に戻る。
 そのまま閉じようとした指が、メールが届いていることに気付いて止まった。
 受信時刻は、つい先ほど。 差出人は、伊達だった。
 慣れた手つきで表示させた内容を、千里は目だけで追う。 壁に掛けられた時計がたてる微かな音が、数回。
 千里は身を翻した。

「あの……、バカっ!!」

 それは決して、早瀬を追い、その行く先を千里に伝えてくれた、伊達に対しての言葉では無かった。


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本章あとがき


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