あの日も、こんな雨が降っていた──
降りしきる雨は、時に強く、時に弱く、闇に白く浮かび上がる建物を叩いた。
雨が奏でる不規則なワルツは、分厚いコンクリートと人工の光に守られた屋内にも無遠慮に届き、病院の広い待合スペースに座った人々の顔を、時おり不安げに窓へと向けさせる。
たった今、窓のある右側を向いた女性──伊達遥もその一人と思われたが、彼女の場合は事情が異なっていた。
顔に映るのは、不安ではなく気遣い。
瞳は、窓の向こうではなく、すぐ隣で力なくうなだれる女性に向けられていた。
「……あの。 早瀬……さん……」
人一倍内気な彼女が、精一杯の勇気を出した声は、それでもあまりに小さすぎた。
床を見つめる──本当はどこも見つめてはいない──早瀬葵の思い詰めた瞳をこちらに向かせることができず、伊達は唇を噛んだ。
そんな彼女の左、早瀬とは反対側の席には、桜井千里が座っている。
一見平然とした面持ちに、しかしさすがに焦慮と沈痛の色を浮かべたその視線は、待合スペースから続く廊下の奥──急患用の処置室へと注がれていた。
──寿零の襲撃を受けて、柳生と真田が病院に運び込まれた。
地下室を出た三人が衝撃の事実を知ったのは、大通りでタクシーを拾い、ジムへと戻る途中でのことだった。
タクシーに乗る前と、乗ってからしばらくは、千里が伊達に状況の説明をしていた。
千里は『通信教育の先生』である伊達にメールで事のあらましを知らせており、だからこそ伊達も、弟子に力を貸そうと急遽──実は、リハビリ終了記念で数少ないメル友と会いたい的な思惑もあって──千里のもとを訪れたのだが、やはり直接話さないと伝わりにくい事柄も多く、千里の話は数分では終わらなかった。
その間、早瀬はほぼ無言。
意識してのことか、千里は伊達への説明中、早瀬と京那の『契約』についてはほとんど触れていない。 伊達にとっても気になる点ではあったが、悲壮感すら漂わせてうつむく早瀬の様子は、伊達に気軽な質問を許さなかったのだ。
そして、千里の話が終盤に差し掛かったところで、早瀬の携帯電話に病院からの連絡が入った。
ジムのすぐ近くまでやってきていたタクシーは、その連絡を受けて目的地を変更。
それ以来、今に至るまで、三人の間には沈黙を原則とする旨の、暗黙の協定が結ばれているのだった。
普段ならむしろ歓迎ともいえる沈黙協定に、今回ばかりは耐え切れないのか。 伊達は再度の勇気を振り絞って、早瀬に呼びかけた。
「……あのっ……」
さらに続ける言葉があったはずだが、それは急激な状況の変化に呑み込まれた。
すっくと立ち上がった、早瀬の姿に。
「……早瀬さん……?」
「電話、してきますね。 ……すみません」
かろうじて微笑みとわかる会釈を残して、早瀬は急ぎ足で待合スペースを離れた。
この病院では、待合スペース近辺での携帯利用は禁止されている。
受付を挟んで反対に位置する玄関ホールへ向かう早瀬をしばらく目で追っていた伊達は、立ち止まった彼女が携帯電話を取り出したのを見ると、小さな吐息とともに視線を外した。 そのまま外に出て行ったりしないかと、不安を抱いていたらしい。
「先生」
すかさず左側から掛かった千里の声に、伊達は若干焦り気味で振り返った。
千里は隣の席ではなく、数歩離れたところに立っていた。 傍らには、眼鏡をかけた男性医師の姿が見える。
「先生がいろいろ書類を書いて欲しいと言うので、行ってきます。 早瀬さんが戻るまで、先生はここで待っていてください」
最初の『先生』が医者のことで、後ろが自分のことだとは、伊達も理解できた。
とりあえず頷いて、それから詳細を聞こうと思っていたら、
「お願いします」
の一声だけで、千里は医師とともにすたすたと歩き去ってしまった。
「……あ、あれ。 えっと……」
戸惑っているうちに千里の姿は廊下の奥へと小さくなり、早瀬を呼びに行こうかと考えてもみるが、電話の邪魔は失礼かとも思う。
リングではクールなファイトで名を馳せ、復帰さえすれば国内最強との声も上がる『静かなる不死鳥』。
彼女が病院の待合スペースでただオロオロと首を巡らす姿は、ある意味でファン垂涎の映像と言えなくもなかった。
「──ではまた、後ほど」
二カ所めになる相手との通話を終わらせた時、早瀬はすでに歩き始めていた。
待合スペースに戻る道ではなく、玄関の向こう、銀の紗幕が待ち受ける夜へと向かって。
「……どこ、行くの……っ?」
小さな声は、すぐ後ろから聞こえた。
早瀬の足が止まる。
振り返らなくても、自分を心配して様子を見に来てくれた伊達の声だということは、もうわかっているに違いない。
「……早瀬さん? 千里ちゃんが、待ってるよ。 だから……」
「終わらせてきます」
伊達はその時、初めて早瀬の声を聞いたような気がした。
早瀬の、心からの声を。
「全部、私のせいなんです。 だから、私が……終わらせてきます」
早瀬が、肩越しに振り返った。
その顔に浮かんでいる、微笑み。
出会った時に見たものとは全く違う、目を離したらどこかへ消え去ってしまいそうなそれが、伊達の胸を打って──
「……ちーちゃんのこと、よろしくお願いしますね」
「──!?」
思わず伸ばした伊達の手は、早瀬の二つに結んだ長い髪にも届くことなく、ただ空気だけを掴んだ。
その手の先を、早瀬は駆けて行く。
雨音に閉ざされた、闇の中へと。
「早瀬さん!」
伊達は、自分が出したとは信じられないような大きな声を上げて、早瀬の背を追おうとし──すぐに身体を反転させた。
がらんとしたロビーを突っ切って、待合スペースの席まで駆け戻る。 携帯電話や折りたたみ傘の入ったバッグを掴んだところで、必死の顔を逡巡がよぎった。
このまま千里を呼びに行くべきだろうか?
千里が去った廊下の奥へと視線を送り、しかしそれも一瞬のこと、伊達は意を決して、早瀬を追うべく再び走り出した。
受付の看護師から飛んだ、病院内では走らないでください、という叱責も、その背には届かなかった。
指示された書類を書き終わり、急患用の簡易病室へ案内されて、数分。
千里は先ほどから、『はあ』『そうですか』『それは災難でしたね』の三語ばかりを何回も繰り返していた。
「あーもうっ! 悔しいっス! もうちょっとだったのに! もう一回やったら、自分があいつをギッタギタにしてやるっスよ!」
「はあ」
「ホントっスからね、千里さん! さっきだって、零の奴がびしょぬれの土足でジムに上がってなければ! そしたら自分が足滑らすこともなく、斬馬迅が当たってたはずなんですって!」
「そうですか」
「そうなんスよ! それをこの不甲斐ない自分の足が、足がっ! 滑ってよろけて、あろうことか柳生先輩の邪魔をしちゃったんス! ああっ、あれさえ無ければ、柳生先輩が遅れをとることも無かったはずなのに!」
「──まあ、そんなこんなで、私と真田が敗れたわけだ」
隣のベッドから柳生の冷静な声が割り込んだおかげで、千里は何度目かとなる『それは災難でしたね』を言わずに済んだ。
腕を組んだ柳生と、口をつぐむもまだ言い足りない様子の真田。
どちらも千里の前でベッドに横たわってはいるものの、これは起きると看護師に怒られるという理由が大きく、二人ともいつでも立って歩けるほどに元気だった。
心配して損しました──などと千里が考えているかどうか、表情からは掴めない。
「念のため、これから内臓や頭部の検査をするそうだよ」
柳生は、腕をついて上体を起こした。
「ただ、おそらく二人とも、問題は無いと思う。 派手に倒されて失神、病院に担ぎ込まれはしたが、結果的には軽い外傷のみ。 さすがはプロレスラーと医者は褒めてくれたが──今回ばかりは、そうではあるまい」
「……どういうことです?」
千里の問いかけに、柳生は合わせていた目線を一旦外した。 天井を見上げる。
「零の、おかげだよ」
「それは──彼女が手を抜いた、ということですか?」
「そう認めるのは、悔しくもあるがな」
柳生は苦笑した。
目線を天井から千里に戻す間に、その表情を真顔に戻して、
「──零も、何か変わったのかもしれん」
「変わった……ですか?」
「今までのあやつであれば、手抜きも情けもありえぬ話だ。 それに、救急車を呼び、連絡先としておぬしたちのことを伝えたのも、おそらくは零なのだよ」
医者の話によれば、救急車を呼んだ相手は名乗らなかったのだという。
しかし、二人が倒された誰もいないジムから救急車を呼び、さらに早瀬や千里のことを知っている人間となれば、消去法で他には考えられなくなる。
柳生の顔は、再び苦笑を刻んだ。
「京那に知られれば、大目玉であろうにな。 我らにとっては、悪くない変化だったわけだが──いや」
自らの言葉に首を振って、
「変化ではない。 あやつは、戻りたいだけなのだろう。 かつての寿零……京那が現れる前の自分にな。 もしそうであれば──」
柳生は三たび真顔に戻って、千里を見つめた。
「零も、限界が近いのかもしれぬよ」
その後、柳生から『懇意にしている忍者から届いた最新の噂』とやらを聞いたところで、千里は部屋から退出した。 検査の準備が整ったからと、看護師たちが柳生たちを連れ出しに来たのだ。
柳生との会話を反芻しながら足早に待合スペースへと戻ると、そこには誰もいなかった。
電話してくると言っていた早瀬を思い出して辺りを歩き回ってみるが、早瀬の姿も伊達の姿も見当たらない。
外は夜で、しかも雨とあっては、散歩に出たとも思えなかった。
どこへ行ったのかと首を捻りながら、千里は何となく自分の携帯電話を取り出した。 玄関ホールの太い柱に背を預けて、病院に入った時にオフにしていた電源を入れる。
しばらく待たされて──もう少し早ければいいのにと思う──携帯電話が立ち上がると、好んでシンプルにしてある画面で、マークが一つ増えていることに気が付いた。
留守番電話への着信を示すマークだ。
電話機本体ではなくセンター側で記録される留守電であり、いささか操作は面倒だが、かなり長いメッセージも保存できたはずだ。
もっとも、そんなに長い伝言が残っていることもないだろう。
むしろ間違い電話かいたずらの可能性が高いと思いつつ、千里は画面に表示された番号を押してセンターに繋ぐと、メッセージを聞くべく携帯を耳に当てた。
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