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迷宮に迷いし蝶 [7]

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「……怪我とか、してない……?」

「あ、はい。 大丈夫……かな」

 倒れたままでロープをほどかれた早瀬は、手首をさすって立ち上がった。

「ありがとうございます!」

 起き上がりざま目の前で弾けた、人懐っこい笑顔。 伊達は一瞬見張った目を、思わず大きく逸らしていた。

「……ほ、本当に、『天使みたいに笑うお姉さん』なんだ……」

「え? なんですか?」

「……う、ううん。 なんでもない……」

 もじもじと頬まで赤らめた伊達は、もともと、極めて人見知りするタイプなのだ。

 そんな伊達を目の当たりにして、凄く綺麗で怖いくらいに強いけど、案外かわいい人なのかも、とか考えつつ、

「あの、伊達さん。 でも、どうしてここに?」

 と、早瀬が訊くと、伊達はさらに恥ずかしそうに身をすくめた。

「……メール……」

「メール?」

「……メールで、友達に頼まれたから……」

「友達?」

 オウム返しで首を傾げる早瀬に、胸の前で手を合わせた伊達が、どこかうれしそうな口調で答えた。

「……桜井、千里ちゃん……」

「桜井……ええぇっ? 千里ちゃん!?」

先生っ! 早瀬さん!」

 面食らった早瀬の耳に、馴染みつつある声が飛び込んできた。
 早瀬と一緒に階段口を向いた伊達が、

「……もう。 また、先生って言う……」

 メールで何度言っても直してくれない、会うのは二度目な弟子に、頬を膨らませた。

「……私も、お姉さんか、友達が、いいのに……」

 呟きは小声すぎて、駆けて来る千里の足音に紛れた。

「早瀬さん、大丈夫ですか?」

「う、うん。 伊達さんのおかげでね。 千里ちゃんは、どうしてここに?」

 今日はこの質問ばかりだなぁ、と思いつつ、早瀬は千里に訊いた。

「話せば長くなるのですが私に会いに来てくれた先生が、京那の名が書かれた紙を偶然拾ったんです。 メールでその話を教えてもらっていたら、ジムに現れた京那がウォン姉妹のことを教えてくれました。 そして、ビルに入っていく零らしき人を先生が見かけて、あとは

 かいつまんだつもりだったが、それでも長くなった。 言葉を切った千里は、形の良い顎に指を添えて、

とにかく、先生とメールと偶然のおかげです」

 無理矢理まとめた。
 文句の一つも出なかったのは、早瀬が別の話に気を取られたからだ。

「京那がジムに……そうだ、零も言ってた。 千里ちゃんに用って、何だったの?」

「誘われましたが、断りました」

 今度は要約されすぎて、正確な意味がわからない。 細かく訊こうとした早瀬より先に、千里が続きを発した。

「早瀬さんとの契約についても、話していきましたよ」

 何気ないその言葉が、早瀬の世界を凍りつかせた。
 千里も、それ以上は何も喋らない。
 向かい合ったままの二人を、伊達はちらちらと目だけで見比べていたが、ふっと顔を階段の方へと向けた。

「……雨……?」

 微かな雨音が、地下のこの部屋にまで、届いてきていた。


 ついに降り出した雨は、雷鳴まで引き連れて、激しくなる気配を漂わせていた。

「降って来ちゃいましたね。 早瀬さんたち、大丈夫っスかねぇ」

 真田の声の後半は、雨に濡れることを心配したものではなかった。
 京那が去った後、いつの間にか外出していた千里からの電話で、千里の『先生』とやらが早瀬救出に向かったことは知っている。
 肝心の行き先を聞きだせずに電話を切られ、折り返してもつながらないということで、真田は柳生からこってり絞られたわけだが、

「こうなれば、信じて待つしかあるまい」

 と腹を据えた柳生ともども、真田も待機することとなったのだ。
 休憩室のソファで腕を組み黙考を続ける柳生を、真田はびくつき気味の顔で眺めて、

「先輩……ジム、行きますか? 戻ってきたら、すぐわかりますし……」

 と呼びかけた瞬間、いきなり立ち上がった柳生の姿に、真田はひっと身を引いて窓ガラスに肩をぶつけた。

「人の気配だ」

「へっ?」

 と呆けた真田の鼓膜に、ジムの方から物音が聞こえた。
 玄関の引き戸が開けられる音ということは、外にいる人の気配を感じたのか、この先輩は?
 真田が開いた口をさらに拡大させたところで、柳生は身を翻して駆け出した。 慌てて、真田も後に続く。

「早瀬さん、千里さん! 戻ってきた!?」

 ジムへと出たところで声に乗せた真田の期待は、言い終わらぬうちに打ち砕かれた。

 開いたままの戸口の向こうは、大粒の雨。
 その中を、一人で歩いてきたのだろう。 傘も持たない足元には小さな水溜まりができ、さらに広がる様相を呈していた。
 フードを目深に被った長衣から滴り続ける、水滴によって。

「もう、あなたたちは……終わりでいいって、さ」

 身構える柳生と真田に向けて、零は静かに一歩を踏み出した。

〜 第三話:迷宮に迷いし蝶 [完] 〜


本章あとがき


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