「……怪我とか、してない……?」
「あ、はい。 大丈夫……かな」
倒れたままでロープをほどかれた早瀬は、手首をさすって立ち上がった。
「ありがとうございます!」
起き上がりざま目の前で弾けた、人懐っこい笑顔。 伊達は一瞬見張った目を、思わず大きく逸らしていた。
「……ほ、本当に、『天使みたいに笑うお姉さん』なんだ……」
「え? なんですか?」
「……う、ううん。 なんでもない……」
もじもじと頬まで赤らめた伊達は、もともと、極めて人見知りするタイプなのだ。
そんな伊達を目の当たりにして、凄く綺麗で怖いくらいに強いけど、案外かわいい人なのかも、とか考えつつ、
「あの、伊達さん。 でも、どうしてここに?」
と、早瀬が訊くと、伊達はさらに恥ずかしそうに身をすくめた。
「……メール……」
「メール?」
「……メールで、友達に頼まれたから……」
「友達?」
オウム返しで首を傾げる早瀬に、胸の前で手を合わせた伊達が、どこかうれしそうな口調で答えた。
「……桜井、千里ちゃん……」
「桜井……ええぇっ? 千里ちゃん!?」
「──先生っ! 早瀬さん!」
面食らった早瀬の耳に、馴染みつつある声が飛び込んできた。
早瀬と一緒に階段口を向いた伊達が、
「……もう。 また、先生って言う……」
メールで何度言っても直してくれない、会うのは二度目な弟子に、頬を膨らませた。
「……私も、お姉さんか、友達が、いいのに……」
呟きは小声すぎて、駆けて来る千里の足音に紛れた。
「早瀬さん、大丈夫ですか?」
「う、うん。 伊達さんのおかげでね。 千里ちゃんは、どうしてここに?」
今日はこの質問ばかりだなぁ、と思いつつ、早瀬は千里に訊いた。
「話せば長くなるのですが──私に会いに来てくれた先生が、京那の名が書かれた紙を偶然拾ったんです。 メールでその話を教えてもらっていたら、ジムに現れた京那がウォン姉妹のことを教えてくれました。 そして、ビルに入っていく零らしき人を先生が見かけて、あとは──」
かいつまんだつもりだったが、それでも長くなった。 言葉を切った千里は、形の良い顎に指を添えて、
「──とにかく、先生とメールと偶然のおかげです」
無理矢理まとめた。
文句の一つも出なかったのは、早瀬が別の話に気を取られたからだ。
「京那がジムに……そうだ、零も言ってた。 千里ちゃんに用って、何だったの?」
「誘われましたが、断りました」
今度は要約されすぎて、正確な意味がわからない。 細かく訊こうとした早瀬より先に、千里が続きを発した。
「早瀬さんとの契約についても、話していきましたよ」
何気ないその言葉が、早瀬の世界を凍りつかせた。
千里も、それ以上は何も喋らない。
向かい合ったままの二人を、伊達はちらちらと目だけで見比べていたが、ふっと顔を階段の方へと向けた。
「……雨……?」
微かな雨音が、地下のこの部屋にまで、届いてきていた。
ついに降り出した雨は、雷鳴まで引き連れて、激しくなる気配を漂わせていた。
「降って来ちゃいましたね。 早瀬さんたち、大丈夫っスかねぇ」
真田の声の後半は、雨に濡れることを心配したものではなかった。
京那が去った後、いつの間にか外出していた千里からの電話で、千里の『先生』とやらが早瀬救出に向かったことは知っている。
肝心の行き先を聞きだせずに電話を切られ、折り返してもつながらないということで、真田は柳生からこってり絞られたわけだが、
「こうなれば、信じて待つしかあるまい」
と腹を据えた柳生ともども、真田も待機することとなったのだ。
休憩室のソファで腕を組み黙考を続ける柳生を、真田はびくつき気味の顔で眺めて、
「先輩……ジム、行きますか? 戻ってきたら、すぐわかりますし……」
と呼びかけた瞬間、いきなり立ち上がった柳生の姿に、真田はひっと身を引いて窓ガラスに肩をぶつけた。
「人の気配だ」
「へっ?」
と呆けた真田の鼓膜に、ジムの方から物音が聞こえた。
玄関の引き戸が開けられる音──ということは、外にいる人の気配を感じたのか、この先輩は?
真田が開いた口をさらに拡大させたところで、柳生は身を翻して駆け出した。 慌てて、真田も後に続く。
「早瀬さん、千里さん! 戻ってきた──!?」
ジムへと出たところで声に乗せた真田の期待は、言い終わらぬうちに打ち砕かれた。
開いたままの戸口の向こうは、大粒の雨。
その中を、一人で歩いてきたのだろう。 傘も持たない足元には小さな水溜まりができ、さらに広がる様相を呈していた。
フードを目深に被った長衣から滴り続ける、水滴によって。
「もう、あなたたちは……終わりでいいって、さ」
身構える柳生と真田に向けて、零は静かに一歩を踏み出した。
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