「高飛車というか、生意気というか。 まったく何様のつもりよ、あの千里って子」
天に唾する悪態をつきながら、京那はジムを退出した。 頭上に広がる厚い雲が気になったものの、幸いにしてまだしばらくはもちそうだ。
「あの話を聞いても、返事が全然変わらないなんて。 頭悪いんじゃないかしら」
早瀬に関する京那の話が終わった後、さすがにショックを受けた様子の柳生や真田と異なり、千里は少なくとも表面上、平然としていた。
その千里を廊下に誘い出すと、京那は改めて自分の下に来るように勧めたのだ。
即時承諾は無くとも、今度は悩むはず──と踏んだ京那の予想はしかし、全く変わらない千里の態度と返答の前に、あえなく裏切られた。
あまつさえ、京那が念を押そうとしたタイミングで千里に再びメールが入り、京那を無視して返事を打ち始めたと思ったら、最後は携帯を操作しながら「失礼」の一言だけを残して歩み去ったとあって、ついに京那も憤然と辞去を決めたのだった。
「まあ、いいわ。 それならこちらも、やることをやるだけよ」
腹の虫がおさまらないのか、わざわざ口に出して宣言してから携帯電話を取り出した。
アドレス帳から番号を呼び出し、耳に当てる。
しばらく待つと、機械的な女性の声が、相手の携帯が圏外にあるか電源が入っていないことを一方的に告げた。
「ロードワーク中のはずでしょ!? なにやってるのよ、あの子はっ!」
八つ当たりだと多少は自覚しつつ、京那は苛立ちを電話口にぶつけていた。
零は、まだ地下室にいた。
早瀬に向けた質問、その答えを辛抱強く待ち続けていたのだ。
しかし、早瀬は口を閉ざしたまま、何も語ろうとはしない。
関わりあいたくない種類の沈黙が続いて──とうとう、零の方が折れた。
「やっぱり……答えられないん、だ」
肩をすくめて、あるいは落として、零は踵を返した。
「京那の言ったとおりってこと、だよね……」
早瀬は顔を上げたが、背を向けた零が気付くはずもない。
ドアを開けると、すぐさまキャシーが声を掛けた。
「零さまっ。 もうよろしいのですか?」
「う、ん……。 用は済んだから……」
「この女は? いかがいたしましょう?」
「好きに……していい、よ」
失望から来る無関心を早瀬の耳に残して、零は後ろ手にドアを閉めた。
駅から続く裏通りに面した雑居ビル。
地下からの階段を上がってきた零は、ちょうど携帯にかかってきた電話を取った結果、何度も電話したのに、という不機嫌な女性の嫌味を、しばらく聞かされることになった。
やがて電話を終えた零は、軽く柔軟をやり直し、駅とは反対方向に走り出した。
ロードワークを再開したわけではない。
雨が降る前にホテルまで戻って、とある場所へと行かなければならないのだった。
マラソンランナーばりのスピードで走り去る零。
その後ろ姿を物陰から見つめて、一人の女性が呟いた。
「……間違いない。 寿、零……だよね……?」
どこか気弱そうに縮こまった女性の手には、道で拾った一枚の紙が握られていた。
千里は、商店街や駅へと続く坂道を駆け上ろうとして、不意に足を止めた。
携帯電話に、この一時間で三度目となる、同じ相手からのメールが届いていた。
「因果応報! ワタシたちの邪魔をするからよ!」
「ウフフフッ。 音を上げるなら今のうちですよ?」
地下の小部屋では、ウォン姉妹が早瀬への『説得』を再開していた。
縛り付けられた早瀬を椅子ごと床に蹴り倒して、足先で顔や身体を踏み付け、拷問用の棒で椅子や左右で結んだ髪の長い房を叩く。
肉体に傷をつける直接的な責めにはまだ至っていないものの、姉妹の顔で徐々に深まっていく嗜虐の笑みが、全ては時間の問題だと告げていた。
「お、お願い。 もう、やめ……」
早瀬の弱々しい呻きが、逆に姉妹の背中を押した。 二人の笑みが限界まで深まり、ついに自制心が決壊する──寸前、突如として邪魔が入った。
閉じられたドアの向こうで、騒ぎが再び巻き起こったのだ。
「今度は何ですっ!?」
キャシーは思わず欲求不満の叫びを上げた。
激昂のまま大股でドアに近寄ろうとした時、そのドアが衝撃音とともに開き、配下の女性が仰向けに吹き飛んできた。
つい先ほどのリプレイとしか、考えられない映像。
思わず呆然としてしまった姉妹と早瀬の前に、これも前回と同じく、一人の女性が姿を現した。
「零さま!?」
違う、とキャシーはすぐに自ら気づいた。
背丈は、前回──零とほぼ同じ長身。 他方、やや細身な点と、一本結びにした長い髪が、明らかに異なっている。
何より、下手なモデルなど及ばぬ端正な顔立ちに乗った、切れ長の瞳。
姉妹と早瀬、三人の記憶が同時に彼女の名を導き出し、畏怖の響きすら込めて口に乗せたのは、その瞳に見つめられたからかもしれなかった。
「伊達……遥っ!?」
「……あ、うん。 私……」
自分の名を呼ばれた女性は、およそ畏れや怖れなどとはほど遠い頼りなげな声で、小さくうなずいたのだった。
伊達遥。
静かなる不死鳥──フェニックスとも呼ばれ、長身を活かした蹴り技を得意とする国内きってのストライカー。
現役レスラーの中では、寿零と並ぶ数少ない“世界を狙える選手”であり、実のところウォン姉妹も早瀬も、零の相手としては真っ先に思いついた人物である。
残念なことに、EWA世界王座への挑戦を目前に事故で重傷を負って以来、長期にわたる欠場を余儀なくされていたはずだが──
「……あなた、早瀬さん……?」
「は、はい!」
直接の面識は無いものの、同じ打撃系レスラーである早瀬にとって、伊達は目標とする選手の一人でもある。
まさかこんな地下室で、椅子に縛られ転がされて床から挨拶することになるとは思ってもみなかったが、登場の仕方から言っても敵とは思えなかった。
一方のウォン姉妹は姉妹で、突然どころか青天の霹靂と言って良い伊達の登場に、敵か味方かの明確な判断すら下せず、ただ逡巡していたのだが、
「……待ってて。 すぐ助けるから……」
伊達のこの言葉が、決定的だった。
「先手必勝!」
薄闇に踊ったブルックの貫手を、伊達は軽やかに後退して躱した。
正中線がぶれない伊達の動きに内心で感嘆しつつ、キャシーは伊達と妹を追う形で戸口をくぐった。
二十坪弱のスペースで相対した距離は三メートル弱。 周囲には四名の部下が全員倒れ伏していたが、キャシーもブルックも今さら驚きはしない。
あの伊達遥なら、これくらいはやってのけて当然だ。
それほどの相手を前にしながら、しかし二人は自信と余裕の表情を崩さなかった。
「伊達遥──なるほど。 私たちでも、これは危ない」
唄うように呟いてから、キャシーは、にいっと笑った。
「あなたが、まだ復帰もできない怪我人でなければね。 そして──」
「衆寡不敵──二対一でなければ!」
ブルックが動いた。
右側、伊達の左奥へと素早く弧を描く。
伊達は目で追いこそしなかったが、間違いなく意識はブルックに向いた。
「こちらですわよ!」
絶妙のタイミングは、姉妹ならではか。
伊達の意識の外側で、キャシーが直線を滑る。
放った掌打はそれでも躱され、入れ替わりに鋭い手刀が襲うが、これを化勁でいなしたところまで、キャシーの読みの範囲内だった。
──これならば。
キャシーの自信に呼応して、ブルックの横蹴りが三連で襲う。
二発を捌き、一発は避けた伊達だったが、
「壊れなさいなっ!」
懐に入りこんだキャシーのエルボー──頂肘が、伊達の細いボディにめり込んだ。
「伊達さんっ!」
隣室の床からの悲痛な声を早瀬から、空気を吐き出す音と骨の軋む音を伊達から引き出して、キャシーの口元が吊り上がる。
あとは離れ際に顎を蹴り上げれば、それで一巻の終わり──。
終劇の二文字を脳裏に浮かべて放った脚があっけなく空を切った瞬間は、さすがにキャシーも肝を冷やした。
それでも、伊達が反撃もせず逃げるように大きく背後へと回りこんだのを見ると、すぐさま余裕と侮蔑の笑みを取り戻す。
「どうしたの? そんなことで彼女を助けられるのかしら?」
「……うん。 ちょっと、なまってるかも……」
肘を入れられた箇所をさする声に違和感を感じたのは、ブルックの方だった。 姉の一撃をまともに受けておきながら、伊達の声には苦痛の響き一つ残っていない。
警戒しながらキャシーの隣に並んだ時、初めてブルックは気がついた。 伊達が、姉妹から早瀬を守るように、戸口の前に立ち塞がっていることを。
今までの攻防が全て、早瀬を人質に取られる危険を排するべく、立ち位置を入れ替えるためだったとすれば──?
「姉さんっ! 油断──」
大敵、と続けようとしたブルックにこそ生じた、大きな油断。
姉の眼前で、警告のためにこちらを向いたブルックの顔がひしゃげた。
跳躍一閃。 雷槍の如き伊達の飛び膝蹴りが、妹の顔面を意識ごと吹き飛ばした──とキャシーが悟ったのは、着地しざまの半回転から放たれた伊達の肘に、自分のガードが間一髪で間に合った時だった。
「……不意をついたとはいえ、あの子の内功を一撃で。 やはり、大したものですわねっ」
鍔迫り合いにも似た状態で、キャシーが唸る。
上ずったその声に、伊達の清冽な声が覆いかぶさった。
「……これで、一対一……」
優位性の一つは失われた──そう宣言された気がして、
「怪我人風情がっ!」
キャシーは力ずくで伊達を突き放し、裂帛の気合とともに連撃を繰り出す。
左右交互の下段蹴りに裏拳を混ぜ、回転力と手数で圧倒する流派秘伝のコンビネーションには、伊達といえども受けと回避が精一杯で、反撃の糸口が掴めない。
どころか、何発かは捌ききれずに喰らってしまい、伊達には苦鳴を、キャシーには嘲弄の響きを上げさせた。
「これで終わりね──別了!」
ビエラ。 決別の言葉が跳ね上げた右脚をどう躱しても、真の狙いである踵落としが、伊達の頭上に叩き込まれる。
詰んだはずの状況──それはキャシーの常識だった。
垂直に上がった脚が跳ね戻る刹那の間に、伊達は螺旋の動きで沈み込んだ体勢から長い脚を旋回させ、驚愕する間すら与えずにキャシーの軸足を刈り取った。
なぜ自分が天井を見上げて落ちていくのか。 己を襲った状況を理解できないままに、キャシーの身体は長年の修練で刻み込まれた受身を取って、即座に起き上がる。
そのこめかみに吸い込まれたのは、閃光。
キャシーの意識を妹と同じ闇の奥へと送り込む、伊達の膝蹴り──シャイニングウィザードだった。
「怪我人……風情、が……」
消え行く意識がリフレインさせたつい先ほどの台詞に、
「……もう、怪我人じゃないもの……」
伊達は小さめの口を尖らせて、抗議した。
「……リハビリは……昨日で全部、終わったんだからっ……」
懸命の主張に反論できる存在は、この部屋のどこにも残ってはいなかった。
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