「今日も大した人気ぶりでしたね、早瀬さん。 さすがです」
「もうっ、おだてたってここはオゴらないよ? 何年もやってる分、少し名前が知られてるってだけなんだもん」
本来の練習開始時刻までなら、というジム側の好意で、早瀬と千里は、この二日間だけ特別に設備を使わせてもらっていた。
練習生たちは、他団体とはいえ名の知れたレスラーである早瀬と一緒に練習をやりたがったが、これは約束だからと早瀬が辞退。
二人は、時間つぶしと軽い食事を兼ねて、近場の喫茶店に入っていた。
「ウチは小さい団体だけど、他のトコとの交流は活発だったの。 私もしょっちゅう出稼ぎ──じゃなかった、参戦してたから、顔はそこそこ広いんだ」
「今日、試合から戻ってくるはずの人、確か──」
「柳生さん。 柳生美冬さんよ」
「その柳生さんも、早瀬さんとはお知り合いなんですか?」
「柳生さんが前の団体だった頃、挨拶程度にはね。 年は下だけど、私なんかよりもすごく強くって。 あとは、ホントのお侍さんみたいな人だったなぁ」
柳生美冬が、当時所属していた老舗団体・WARSを離脱したのは、一年と少し前のことだ。
打撃系中心の小団体に移ったことで、メディアなど一般への露出は激減。 しかし、彼女の白刃を思わせる鋭い技と武骨なファイトスタイルは、その後も健在どころか磨きがかかり、男女問わずコアなファンからはカリスマ視されているという。
早瀬は、その柳生に会うべくこの地を訪れ、巡業から戻ってくる今日の午後、ジムで顔を合わせる約束を取り付けたのだった。
「早瀬さんよりも強い人、ですか。 会うのが楽しみですね」
楽しみと言いながら、千里の口調は淡白で、ニコリともしない。
思わず早瀬は『会った早々、柳生に果たし状を突きつける千里の図』を脳裏に浮かべてしまったが、いくらなんでもそれは無いだろうと、笑って打ち消すことにした。
「あははは。 まぁ、私より強い選手はたくさんいるんだけどねー」
自分で言うのもちょっと悲しい補足を入れつつ、早瀬はソファシートから腰を上げた。
千里に一声かけて、化粧室へと向かう。
残された千里は、ちょうど食器を片付けに来たウェイトレスに軽い頷きだけで答え、所在なさげに店内を見渡していたが、その視線が不意に止まった。
向かいの席でサラリーマンらしき男性が広げたスポーツ新聞に踊る『女子プロレスラー』の文字。
数日前までなら気にも留めなかったであろうその記事に焦点を合わせると、続いて『辻斬りか!?』『闇討ち相次ぐ!』といった物騒な文字が飛び込んできた。
思わず千里も目を凝らす。
細かい文字の一つ一つまでは読み取れなかったが、どうやら二人の女子レスラーが路上で何者かに襲われ、病院に担ぎ込まれた、という記事のようだ。
被害者であろう二人の写真は知らない顔だ──といっても千里が顔を知るレスラーはごく少数しかいない──が、顔の広いという早瀬なら、知っている選手かもしれなかった。
二人の名前を記憶しようとしたところで、低い振動音が千里の注意を引きつけた。
ガラスのテーブルの上で、早瀬が置いていった携帯電話が震えている。
他人の電話に出る気はなかったが、ガラスを叩く音が明らかに耳障りだったし、放っておけばテーブルの端から落ちるかもしれない。
千里がテーブルから携帯を拾い上げると、液晶の小窓に表示された発信者名が、見るとはなしに目に入った。
「あ、電話!? ごめんね、千里ちゃん!」
謝られても困ってしまうが、小走りに戻ってきた早瀬に、とりあえず携帯を渡す。
早瀬が焦り気味に耳に当てて「もしもしっ」とやると、幸いにも向こうがしびれを切らす前だったようで、早瀬の顔には安堵の色が広がった。
「はい、はい、早瀬ですが──って、那月ちゃんじゃない! どうしたの、急に……?」
安堵の色は、たちまち喜びと不安のブレンドに変化した。
千里に背を向けて少し離れ、他のお客さんの手前もあってか、小声で話す。
それに聞き耳を立てるほど千里は無神経ではなかったが、特徴的な一部の言葉は、聞かずとも耳に入ってきてしまうものだ。
「──団体の──大丈夫? ──中森さん───入院してから──唯ちゃんも。 ───退院は───」
千里はふと、先ほどの新聞記事を思い出した。
向かいの席に目をやるが、残念なことに新聞は、ちょうど男性の黒いカバンに収まったところだった。
その間に、早瀬の電話も終わろうとしていた。
「うん。 お大事に……って、もうだいぶ元気なんだよね、よかった。 それじゃあ!」
最後は弾む声で通話を終えた早瀬だったが、直後に携帯の画面を見つめた顔は、その声や「よかった」という言葉とは正反対の印象しか与えなかった。
それでも、千里の視線に気付くと微笑みを浮かべたが、これも明らかに失敗作だ。
こういう場合、話の内容を細かく詮索する人もいれば、何も聞かない人もいる。
千里が選んだのは、前者に近い中間地点だった。
「早瀬さんの仲間──後輩の方ですか? 電話を持った時、真壁那月、というお名前を見てしまったのですが」
早瀬はそれには答えずに、少しうつむき加減で席に戻ってくる。
すぐ座るのかと思いきや、立ったまま、上げた顔を千里の方に向けた。 優しく明るい、しかしどこかいつもとは違う笑みを浮かべた早瀬は、
「そうなの。 那月ちゃんは後輩なんだけど、気が強い子でねー。 最近、こっちから連絡してなかったから、何やってんのよって怒って電話してきたんだ」
と肩をすくめてから、
「そういえば、千里ちゃんには言ってなかったね。 実はうちの団体、ほとんどの選手が食中毒で入院しちゃってるんだ。 平気だったのは、なんと私一人。 私はほら、賞味期限切れの牛乳とか平気なくらいに鍛えられてるじゃない? だから一人だけ平気だったのね。 これはもう、アレよアレ。 貧乏生活の勝利ってとこかなぁ?」
流れるような弁舌だった。
流暢すぎて違和感は強いものの、説明は筋が通っていなくもない。
千里が納得したのかどうか、変化の少ないその顔色から窺い知ることはできなかったが、
「それは、大変ですね。 ところで──」
ともあれ、彼女の方針は『少し質問を変える』で決まったようだ。
「早瀬さんが強い人を訪ねているのも、そのせいなんでしょうか?」
──強いストライカーを、連れてきなさいな。
「えっ? うん、そう、そうなの。 現役の人でもそうでなくても、何とか人数集めないと興行打てないからね。 なりふり構ってられなくてっ」
今度は、私は動揺しています、と全身で主張してしまっている早瀬がそこに居た。
千里は対照的にほぼ無反応のままだが、いい機会だからいろいろ訊いておこう、とでも考えたのだろう。 あるいは、面白そうだから質問攻めにしてみよう、ぐらいは思ったのかもしれない。
「もう一つだけ、訊いていいですか?」
「う、うん。 なにかな?」
「──ちーちゃん、というのは、どなたかのあだ名なんでしょうか?」
早瀬の一時停止ボタンが押された。
そう思えるほど見事に、席につこうとした早瀬の動きが固まっていた。
それも一瞬、すぐ何事もなかったかのように腰を下ろすと、早瀬は再び千里と向かい合った。
しかし、その表情は明らかに硬く、顔色は白い。
「ちーちゃん……って? 千里ちゃん、どうして、その名前……?」
紡がれた声は人形を思わせた。
「……初めて会った次の朝、早瀬さんが寝言でおっしゃっていました。 それから、公園で戦った時にも聞いた名前です。 その時に訊こうかとも思ったんですが──この話は、ここまでにしましょう」
千里からの唐突な打ち切り宣言に、むしろ早瀬の方が驚いた。
まばたきをした早瀬の瞳に、斜め下に目を落とした千里の姿が映っている。 その顔には、はっきりと後悔という色が刻まれていた。
「どうも私は、空気を読まずに質問や発言をしてしまう癖があるようです。 学校や寮で、相手を怒らせたり煙たがれたりしたのも、一度や二度ではありません。 ──あまり、好かれるタイプではないということですね」
千里の顔は、後悔から自己嫌悪へとその色を変えていた。
早瀬は何か言わなきゃと口を開いたが、いざ開いた口からは、何の言葉も出てきてくれなかった。
「早瀬さんは優しいので、少し甘えてしまいました。 これからは、もう少し気をつけることにします。 だから、今の話も──」
「違うのっ」
ようやく出てくれた言葉とともに、早瀬は強く首を振った。
「違うの。 言えない話なんて、一つもないんだよ。 ただ、何から話せばいいのか……って、それだけなの。 だから……もう少しだけ時間くれるかな?」
「それは、構いません。 ですが、無理をする必要は……」
「無理じゃないってば。 私が、千里ちゃんには知っておいてもらいたいんだもん。 ね?」
早瀬葵・謹製の、今度こそ本物の微笑み。
互いの間を流れる空気が、ようやく和やかなものへと戻り──
喫茶店の古風な鳩時計が、二人に時の訪れを告げた。
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