「うわぁっ、ストップ! そこまではストップぅ!」
窓越しでもわかる、気持ちの良い朝の光。 その中に響き渡った必死の声が、倒れた顔面を襲いかけた物理的衝撃を、ぎりぎりで風圧までにとどめた。
「あははっ、間一髪。 ……はぁ」
少女の足首とシューズが大写しになった光景は、ある趣味の男にとっては堪らないものかもしれないが、早瀬葵にそんな趣味は無かった。 大体、性別からして違う。
「え、えーっと、合格。 今のが、相手のタックルへの対応の一つよ。 切って倒して、蹴りを一発。 キックの当てどころ間違えると本っ当に危ないから、そこは気をつけてね」
「はい。 ありがとうございます」
素直に頷き、頭まで下げた桜井千里に、早瀬はマットから身を起こしつつ笑顔を見せた。 額に少しだけ浮いてしまった冷や汗を、手の甲で拭う。
「あとは、もうちょっと余裕持って寸止めしてくれると助かるかなぁ。 この調子だと、そのうち私の心臓が止まっちゃうかも」
「す、すみません」
これも素直に謝った千里の肩に掴まって、早瀬は立ち上がった。
少しずれてしまった右の髪留めを直しつつ、思った以上に恐縮している千里へのフォローで、もう一度笑顔を見せた。
「でもホント、千里ちゃんの吸収力はすごいよねー。 私なんか、タックル切れるようになるだけでも随分とかかったもん」
千里の家を出発してから、まだ三日。
早瀬の用が優先のため、練習は早朝と夜の短い時間のみ、という状況下において、千里はすでに受身や防御テクニックのいくつかを、ほぼマスターしていた。
幼い頃からひたすら基本を積み重ねてきた千里ならではの吸収力、ということは理解しつつも、覚えの悪い我が身と比べて、少しやるせなくもなってしまう早瀬だった。
「うーん。 私もいっそ、一からやり直した方がいいのかなぁ」
「タックルの切り方を、ですか?」
「ううん。 そっちじゃなくって、基礎鍛錬の方なんだけど」
と言ったところで、早瀬は三日前から気になっていたことをふと思い出した。
忘れないうちにと、千里に訊いてみる。
「そういえばさ、どうして千里ちゃんは『技の受け方』から教えてほしいって言ったの? てっきり、プロレスや空手の攻め方を知りたがるかと思ったんだけど」
「……おかしいでしょうか?」
「あ、違う違う。 むしろ、そっちの方が正しい道だとは思うの。 でも、普通はまず攻撃の方を知りたがるんじゃないかなーって」
「もちろん、プロレス技にも興味はありますよ」
千里は、傍らのロープに掛けていたタオルを取りながら言った。
「投げや関節、あとはドロップキックだとかそういう技にも。 ただ、もし誰かに直接教わる機会があればまず防御を、と先生に言われていたものですから」
「先生って、幼い頃通ってた道場の?」
「いえ、メールで教わっている先生です」
「あ、そっちなのね……」
通信教育って話はホントだったんだ。 いや、今のも千里ちゃん流の冗談なのかも、と悩みつつ、早瀬も自分のタオルを手に取った。
その早瀬に、というよりも自分に言い聞かせるように、千里が呟いた。
「──私の技は、相手を倒すためのもの。 ただ、それだけなんですよ」
「え?」
「自分でも、わかっているんです。 このままでは、すぐに限界がやってくると。 だから私は、早瀬さんに──」
「──私、に……?」
早瀬が顔を拭く手を止めたところで、ちょうどタイムリミットがやってきた。
「あっ、早瀬さんだぁ!」
「おはようございます、早瀬さん!」
がらがらと音を立てて開いた入口の引き戸から、きゃあきゃあと連れ立って入ってきた五人は、いずれも千里と同じか少し下くらいの女の子たち。
彼女たちは、早瀬が会いに来た人物が所属するこのジムの、練習生だった。
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