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漆黒のダイヤモンド [1]

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「うわぁっ、ストップ! そこまではストップぅ!」

 窓越しでもわかる、気持ちの良い朝の光。 その中に響き渡った必死の声が、倒れた顔面を襲いかけた物理的衝撃を、ぎりぎりで風圧までにとどめた。

「あははっ、間一髪。 ……はぁ」

 少女の足首とシューズが大写しになった光景は、ある趣味の男にとっては堪らないものかもしれないが、早瀬葵にそんな趣味は無かった。 大体、性別からして違う。

「え、えーっと、合格。 今のが、相手のタックルへの対応の一つよ。 切って倒して、蹴りを一発。 キックの当てどころ間違えると本っ当に危ないから、そこは気をつけてね」

「はい。 ありがとうございます」

 素直に頷き、頭まで下げた桜井千里に、早瀬はマットから身を起こしつつ笑顔を見せた。 額に少しだけ浮いてしまった冷や汗を、手の甲で拭う。

「あとは、もうちょっと余裕持って寸止めしてくれると助かるかなぁ。 この調子だと、そのうち私の心臓が止まっちゃうかも」

「す、すみません」

 これも素直に謝った千里の肩に掴まって、早瀬は立ち上がった。
 少しずれてしまった右の髪留めを直しつつ、思った以上に恐縮している千里へのフォローで、もう一度笑顔を見せた。

「でもホント、千里ちゃんの吸収力はすごいよねー。 私なんか、タックル切れるようになるだけでも随分とかかったもん」

 千里の家を出発してから、まだ三日。
 早瀬の用が優先のため、練習は早朝と夜の短い時間のみ、という状況下において、千里はすでに受身や防御テクニックのいくつかを、ほぼマスターしていた。
 幼い頃からひたすら基本を積み重ねてきた千里ならではの吸収力、ということは理解しつつも、覚えの悪い我が身と比べて、少しやるせなくもなってしまう早瀬だった。

「うーん。 私もいっそ、一からやり直した方がいいのかなぁ」

「タックルの切り方を、ですか?」

「ううん。 そっちじゃなくって、基礎鍛錬の方なんだけど」

 と言ったところで、早瀬は三日前から気になっていたことをふと思い出した。
 忘れないうちにと、千里に訊いてみる。

「そういえばさ、どうして千里ちゃんは『技の受け方』から教えてほしいって言ったの? てっきり、プロレスや空手の攻め方を知りたがるかと思ったんだけど」

「……おかしいでしょうか?」

「あ、違う違う。 むしろ、そっちの方が正しい道だとは思うの。 でも、普通はまず攻撃の方を知りたがるんじゃないかなーって」

「もちろん、プロレス技にも興味はありますよ」

 千里は、傍らのロープに掛けていたタオルを取りながら言った。

「投げや関節、あとはドロップキックだとかそういう技にも。 ただ、もし誰かに直接教わる機会があればまず防御を、と先生に言われていたものですから」

「先生って、幼い頃通ってた道場の?」

「いえ、メールで教わっている先生です」

「あ、そっちなのね……」

 通信教育って話はホントだったんだ。 いや、今のも千里ちゃん流の冗談なのかも、と悩みつつ、早瀬も自分のタオルを手に取った。
 その早瀬に、というよりも自分に言い聞かせるように、千里が呟いた。

私の技は、相手を倒すためのもの。 ただ、それだけなんですよ」

「え?」

「自分でも、わかっているんです。 このままでは、すぐに限界がやってくると。 だから私は、早瀬さんに

私、に……?」

 早瀬が顔を拭く手を止めたところで、ちょうどタイムリミットがやってきた。

「あっ、早瀬さんだぁ!」

「おはようございます、早瀬さん!」

 がらがらと音を立てて開いた入口の引き戸から、きゃあきゃあと連れ立って入ってきた五人は、いずれも千里と同じか少し下くらいの女の子たち。
 彼女たちは、早瀬が会いに来た人物が所属するこのジムの、練習生だった。

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本章あとがき


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