「──千里ちゃん!!」
息せき切って夜の運動公園に駆け込んできたパーティの主賓を、主催側の男たちは三十秒と待たせはしなかった。
物陰から次々に姿を現したかと思うと、早瀬が身構えた時には、すでに歓迎の輪で彼女を取り囲んでいた。
「あなたたち、よくも千里ちゃんまで巻き込んで……この卑怯者!」
十数人の男たちによる輪の中でも、早瀬は臆するところを見せなかった。 目には怒りの炎が燃えている。
「千里ちゃんはどこ!? 無事なんでしょうね!」
「無事ですよ」
弾かれたように振り返る早瀬の前に、輪の一部を割いて三つの人影が現れた。
薄暗い公園灯に照らし出されたのは、昨日訪ねた女と、先ほど電話してきたリーダー格の師範代。
そして──
「その様子だと、策も何も無く、ただ駆けつけたようですね」
「千里、ちゃん……?」
女のすぐ横に立った千里は、拘束されているわけでもなく、男が電話で言った捕らわれの身とは思えなかった。
何より自分を見つめて首を振る軽蔑の眼差しが、早瀬にかすれた声を上げさせた。
「千里ちゃん? これは……」
「見捨てて逃げるような人とも思いませんでしたが、いくらなんでも甘すぎですよ、早瀬さん。 普通ならこれで、共倒れ確定です」
「そうよねぇ。 まったくだわ、お嬢ちゃん」
したり顔で頷いた女の手が、千里の肩に置かれた。 至極、親しげに。
「そんな、まさか……」
虚ろに呟く早瀬の顔から、音すら立てて血の気が引いていった。
嘲りの笑いが、自分を取り囲んだ男たちの輪から聞こえてくる。
それでも早瀬は信じられないという顔で、すがるような視線を千里に向けた。
「千里ちゃん……どうして? 私はただ、あなただけでも守ろうって……」
「守る、ですか」
その声だけで、早瀬は慄然とした。 嫌悪の感情に満ち満ちた、千里の言葉に。
「それは、私が一番嫌いな、弱い考え方です。 愚かですね」
ぐらり、と世界が揺れた。
早瀬の膝が、地面に落ちる。
取り囲む嘲笑はさらに大きくなって、脳裏に容赦なく鳴り響いた。
「──さて。 これで私は帰れるんでしょうか?」
話は終わったとばかりに、千里は女に訊いた。 そういう約束だ。
「そうねぇ、あたしはもういいかしら。 ご苦労さま」
早瀬を痛めつける準備なのか、革手袋をはめながら、女は言った。
「ただ──」
視界の中で師範代の男が背後から千里に忍び寄るが、女は意識して無反応を通す。
「こいつらも、あんたに用があるみたいでねぇ?」
毒々しい笑みこそが、合図だったのか。
男が、至近距離から千里に踊りかかった。
愕然と振り向く間も与えず、鈎状に曲げた指で少女の肩と胸を抱きつくように鷲掴みすると、足を払って引き摺り倒す。
必死で逃れようとする肢体を、男の腕力でねじ伏せ馬乗りになって、自分を見上げてくる怯えた瞳に背筋を震わせながら、整った鼻筋に拳を一発、二発、三発。
いとも容易く飛び散る、千里の鮮血。 自分の頬にも跳ねたその一滴を舐めとって、男は恍惚の眼差しで哄笑を放った。
──激痛が脳内物質を飛び散らせる、焼き切れた意識の中で。
「だと、思いました」
前に大きく傾かせた身体を起こすと、千里は軽く頭を振った。
二夜連続、今夜は後ろ蹴りを股間に受けて悶絶した男と、笑みの名残りで頬を引きつらせたまま後じさる女をそれぞれ一瞥するにとどめて、男たちの作る輪の中心へと歩を進める。
ぺたりと座り込んでこちらを見上げた、早瀬のもとへと。
「千里ちゃん……」
「先ほどは、少し言い過ぎましたね」
いろいろな事が一度に起きて処理しきれていない早瀬に、千里が手を差し出した。
「えっ……えと。 えっ?」
口を金魚のようにパクパクとさせ──髪型のせいか、妙に似合う──ながら、早瀬がその手を取った。
ぐいっ、と引かれて早瀬の腰が上がり、勢い余って千里の肩に寄りかかった。
「十七人。 先ほど一人減らして、それでも十六人」
頬にかかる千里の髪が、くすぐったい。
早瀬は、肩から少しだけ顔を離して、小さく動く千里の唇を見つめた。
「この人数を私一人では、さすがに無理がありました」
早瀬の肩に両手が添えられ、少し距離が作られる。
「ですが──」
ほんの一瞬だけ視線を交錯させてから、千里は身体ごと後ろを向いて、構えた。
「早瀬さんと、二人なら」
無防備な背中を、早瀬に託して。
「千里ちゃん……」
「どうしたんです?」
千里は振り返らない。
振り向ける状況でもないのだろう。 師範代を倒されたショックからようやく持ち直した男たちの輪は、じりじりと狭まってきている。
「でも、でもね。 私は、そんなに強く──」
「私と二人でも、無理ですか?」
「…………」
なおも逡巡する早瀬に、呆れたのか、痺れを切らしたのか。
本当に『嫌いな考え方』なのだろう。 次の言葉を告げた千里の声は、とても嫌そうで、そしてどこか照れくさげだった。
「早瀬さんは、私を……守っては、くれないんですか?」
はっとした早瀬の顔が、たちまち輝きを──そして闘志を、取り戻した。
「ううん!」
くるりと半回転して、構えを取る。
互いに預けた二人の背中が、微かに触れ合った。
「いつまでも何やってんだい、あんたたち! やっておしまい!!」
こればかりはぴたりと雰囲気に合った女の号令に、男たちは一斉に動いた。
中でも数人が地を蹴って二人に殺到する。
そのことごとくが、わずか数秒で跳ね飛ばされた。
「な……なんですって!?」
驚愕に目を見張った女の前で、第二陣、そして続く第三陣までもが、次々と宙を舞い、地に倒れ伏していく。
「──ですねっ」
「なに? 千里ちゃん!?」
「早瀬さんの技、やはり多彩ですねっ!」
「これでも、プロレスラーだから、ね!」
千里の打撃は、重く鋭い。
しかし、ほぼ我流のため相手に合わせる法や理には欠け、着地や技の終わりを狙われれば大きな危険が待っている。
それを見事に補完したのが、早瀬の存在だ。
ともすれば突出しがちな千里の死角を、なめらかだが一瞬で間合いを詰める足運びでカバーして、敵が入り込む隙を許さない。
守っては突き出された手足の関節を取って投げ落とし、攻めては一呼吸で数発を打ち込む寸打の嵐に、カウンターで顔面へ叩き込まれる足刀蹴り──プロレスで言うところのトラースキック。
早瀬の甘さゆえ、倒れた中にはあっさり身を起こす者もいたが、その分は千里が見逃すことなく無慈悲に沈めた。
「これで──終わりです!」
破れかぶれで突進してきた最後の男を、すれ違いざまに打ち倒す千里。
呻きを残して地に伏した男を見下ろして、彼女はようやく息をついた。
そこに生まれた、大きな隙。
「危ない! ちーちゃんっ!!」
悲鳴に近い声にハッとする間もなく突き飛ばされ、千里がたたらを踏む。
肉が弾けるような音と、早瀬の短い叫びが同時に耳を打った。
「あぐぅっ!」
愕然と振り返った千里の目の前で、肩口を押さえた早瀬がうずくまった。
「早瀬さん!?」
自分をかばった早瀬に駆け寄ろうとしたのも束の間、千里は大きく後ろに跳んだ。
間一髪、大気を裂いて襲った黒い蛇が千里の影を打ち、激しい音を響かせる。
「よくも……よくもやってくれたわねぇ! この、じゃじゃ馬どもがっ!」
咆えた女は、革手袋に握った長い鞭を、さらに何度もアスファルトに打ち付けた。
公園灯と月の光に晒される、けばけばしい女と黒い鞭。
その組み合わせを前に、
「うわぁ。 なんか、ぴったり」
と軽口を叩いたところを見ると、早瀬の肩の傷は深刻ではなさそうだ。
千里は胸の内で安堵した。
「男たち──あなたの門下生たちは、仮にも素手でしたが」
近くに居て、早瀬を狙われるわけにはいかない。
千里は、横目で女を睨みつけながら、するすると後ろに摺り足を使った。
「恥という字を、ご存知ですか?」
「耳へんに心でしょ!」
女が振り下ろした右手から、唸りを上げて鞭が飛ぶ。
立て続けに三撃、いずれも左に跳んで躱し、しかし千里と女の距離は変わらない。
間合いを詰められないのだと判断した女が、頭上で鞭を回して、にんまりと笑った。
「達人の振るう鞭はね! 音速だって超えるのさっ!」
空気を灼いて走った鞭が、ついに千里を切り裂いた。
長いポニーテールの先端、数センチだけを。
低い姿勢で飛び込んで一気に眼前に迫った千里の姿に、女は背筋を凍らせた。
それでも何とか鞭を引き戻して抵抗しようとするが、その首元に容赦なく打ち込まれたのは、千里の鞭。
それは、しなやかな右脚が放つ上段蹴り──ハイキックであった。
「──あなたは、達人ではなかったようですね」
どうと倒れる女を一顧だにせず、千里は肩にかかった後ろ髪を、颯爽とかきあげた。
「千里ちゃん、大丈夫? 怪我は無い!?」
全てが終わり夜の静寂を取り戻した公園を、早瀬が駆け寄ってきた。
「それはこちらの質問です。 肩は大丈夫ですか?」
「うん、かすり傷。 でも、服は破けちゃって、どーしてくれよーって感じだよっ」
1980円もしたお気に入りなのに、とむくれる早瀬に、千里は、ご愁傷様です、と全くそんな感情はこもっていない声で返した。
そんな千里の瞳に、ふと、とある感情が揺らめいた。
「ところで、早瀬さん。 さっき──」
「え、なに? 千里ちゃん?」
「いえ……やっぱり、いいです」
きょとんとした早瀬を前に、千里は首を振って自分から話を打ち切った。 そのまま無言で歩き出す。
早瀬が慌てて、その後ろに続いた。
──夜空に浮かぶ月は、昨夜よりも少しだけ小さい。
しかし、昨夜と同じように、蒼く煌々と輝いていた。
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