「早瀬さんは、プロレスラーなんですよね」
お米以外は、冷凍食品のおかずと、レトルトのお味噌汁。
いささか味気ない朝食を終えると、千里は早瀬にそう切り出した。
「う、うん。 あんまり、強くはないんだけどね」
苦笑いを付けて答えた早瀬は、そのまま考え込んだ千里の様子に、首を傾げた。
「──実は、お願いがあるのですが……」
千里は、言いかけてからもう一度熟考モードに入り、早瀬ももう一度首を傾げた。
時間にして、五秒。 体感では、その倍。
ようやく千里は、口元に触れさせていた左手を離して、言った。
「私のトレーニングに、付き合ってくれませんか?」
マンションからは徒歩数分の、運動公園。
スーパーのお惣菜とサンドイッチで済ませた昼食や、何度かの休憩を挟んで、トレーニングは夕方まで続いた。
「千里ちゃんって……このトレーニングを、毎日やってるの?」
「平日は、半分だけですよ」
舌を巻くとは、このことだった。
半分でもプロ顔負けの分量もそうだが、問題は内容と密度だ。 組み手や技の練習が多いならともかく、ひたすらハードな基礎鍛錬のメニューが続くとあっては、体力が続いたとしても、普通なら気持ちの方がもたない。
(さっきは、すごい天才さんかと思ったけど。 これだけ基礎がしっかりしてれば、あれだけ“動ける”のもおかしくないってことかな……)
早瀬も途中までは同じメニューをこなしていたが、参考にしたいという千里の勧めもあって、後半は自分用のメニューに切り替えている。
「それも、プロレスの技なんですか?」
「ううん。 これは、琉球空手の型だよ」
小休止して自分を見ていた千里に、早瀬は型の動きを止めないままで言った。
「プロレスだから一通りいろんな技も使うけど、やっぱり私のベースは、昔からやってたこれだからね」
なめらかだが力強い動きは、遅れて身体に付き従う長い二つ結びの髪の効果も得て、上質な舞いのようにも見えた。
千里の他にも、散歩中のお年寄りや子供を連れた女の人が何組か、時おり立ち止まっては目を細めていく。
「──空手の型は、実戦相手を想定して行なうもの。 そう聞いたことがあります」
千里が給水用のペットボトルを片手に立ち上がった。 トレーニングズボンについた芝生を払う。
「私は素人ですが、その動きを見ればわかります。 早瀬さんは──強い。 プロレスでのランクはともかく、昨日の男たち程度は、軽く捻ることもできたんじゃないでしょうか」
早瀬は、型の動きを止めた。
その顔に、はにかんだ微笑が刻まれる。
「それはちょっと、買いかぶりすぎかなぁ? 恥ずかしいけど、夕べの私は──」
「ほとんど無傷、でしたね。 倒してから気づきましたが、男たちは全員傷だらけでした。 ──どうして、本気で戦わなかったんですか?」
「……一応、私もプロのレスラーだもん。 ケガ、させちゃうかもしれないし」
「訴えられたら困る、ということでしょうか?」
その発想は無かったらしい。 早瀬の目が大きくまたたかれ、それから、
「もっと、逃げ足が速かったらよかったんだけどね。 うまくは行かなくって」
今度は困ったような微笑を浮かべた。
対する千里は、しばらくの間、理解不可能、という顔つきを見せていたが、
「あの手の男たちは、しつこいです」
と、少しだけ話題を変えた。
「ここでの用が終わったのであれば、早めに発たれることをお勧めします。 本気で戦えないのであれば、なおさらに」
「千里ちゃん? どこ行くのっ?」
早瀬から見て横方向、公園の出口に向かおうとしていた千里が、足を止めた。
「仕上げのロードワークです。 一時間ほど走ってくるので、先に帰っていてください。 もし出発されるつもりなら、カギはポストの中にでも」
「──冷蔵庫っ」
あまりに唐突な単語に、前を向いたばかりの千里の顔が、もう一度早瀬の方へと戻った。
「あのね。 冷蔵庫の中、勝手に使っちゃっていいかなぁ。 ダメ?」
「……家のカギを冷蔵庫に入れられても、困りますが」
「違いますっ。 えーとね、その、私、お金なくって。 助けてもらったお礼とかできないから、せめてお夕飯でもって思うんだけど……」
胸の前で人差し指を合わせ、上目づかいでこちらを見られては、これはもうどうしようもない。
千里は無言のまま、頷きを返していた。
商店街を抜けて、住宅地に入った。
角をあと三つほど曲がれば、スタート兼ゴールの運動公園に辿り着ける。
その一つ目の角、十字路の手前で、千里は快調に飛ばしていた足を急停止させた。
「よぉ、姉ちゃん。 夕べは世話になったなぁ。 ああっ?」
三下のチンピラ役を選ぶオーディションなら、一発合格も堅いと思われる声と態度。
ぞろぞろと仲間を連れて角の向こうから姿を現したのは、夕べに千里の金的蹴りで生き地獄を味わった、リーダー格の男であった。
「ちょっとちょっとぉ。 あんたらってば、こんなか細い小娘にのされたのかい?」
女の声は、背後から聞こえた。
右足を引き、半身になってから視線を流すと、キラキラ光るラメ入りの派手な紫ワンピースが、千里の目を吸い付けた。
十人近い男たちを引き連れて道を塞ぐ、スタイルこそ悪くないが目つきと服の趣味は最悪な年増女性の姿は、早瀬から聞いた話の記憶とぴったり符合した。
「……秒殺女」
「はぁ? 何ですって?」
ひっつめ髪の中の厚化粧が、怪訝そうに歪む。
その反応を無視して素早く目を走らせたところ、相手は前後合わせて十七名。
か細い小娘一人を取り囲むには、あまりに大仰すぎる数だった。
「聞けば、夕べはうちの師範代と門下生を、随分と可愛がってくれたそうじゃないの」
女の声には余裕が溢れていた。 自らの実力ではなく、頼んだ数の多さからくる余裕が。
「しかも昨日の今日で、あの早瀬って女と二人仲良く公園でお遊戯してたってねぇ。 これまた随分と、あたしたちをナメてくれたもんじゃないか。 そうだろ、あんたたち?」
男たちが全員、一歩前へ踏み出した。
どの顔も、夕べ早瀬に向けたような下卑た笑いを浮かべている。
女がひと声掛ければ、一斉に男たちが押し寄せてくるのは間違いない。 その渦の中心で、千里は顔色一つ変えずに女と正対した。
「私なんですか?」
いきなり千里が発した質問の意味が、女にはわからなかった。
千里は噛み砕いて質問を繰り返す。
「私よりも恨みを晴らすべき相手が、他にいるんじゃないですか?」
今度は意味を理解した上で、女は押し黙った。
その反応を誤解したのか、千里は三たび、さらに露骨な表現を使って訊いた。
「あの人、早瀬さんを連れてくれば、私は見逃してもらえませんか?」
一秒──二秒──。
突然、甲高い笑い声が夕暮れの迫る住宅地に響きわたった。
腹まで抱えてひとしきり笑う女を前にしても、千里は無表情のままだった。
「あー、面白い。 何を言うかと思ったら。 あんた、想像以上に大したお嬢ちゃんねぇ。 気に入ったわよ」
くくくっ、とまだ喉で笑い続ける女に、千里は軽く両目を閉じた。 お礼の意味だったのかもしれない。
「いいわ、確かにあたしの目的はあの女だしね。 あいつを呼び出してくれたら、その場であんたを解放してあげる。 それでいい?」
千里が首肯するのを待ってから、女はあからさまな侮蔑の笑みとともに言った。
「それにしても。 最近の若い女の子って、怖いものなのねぇ?」
「うん、そう。 来月の仕送り、ちょっと遅れるかもしれないの。 ごめ──うん、うん。 大丈夫なのね? よかった。 それじゃあ、また」
安堵の表情で実家への電話を切った早瀬は、携帯──ちなみに団体から無料で借りている業務用だ──の液晶画面に表示された時刻に気付き、不安げにテーブルの上を見た。
「千里ちゃん、遅いなぁ。 貧しいお姉さんならではの知恵と工夫と愛情がいっぱい詰まったお夕飯、このままだと冷めちゃうよ」
温め直してもおいしいとは思うけど、でもレンジ使うと電気代もったいないし、と腕組みしてしかめっ面を作ったところで、電話が鳴った。
携帯ではなく、千里の家の電話だ。
取っていいのか迷っているうちにコールは十回を数え、しかも止まる気配を見せない。
意を決して、早瀬は受話器を取った。
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