──幸せな夢を見た。
過ぎ去ったあの頃。 楽しかった日々。
かけがえの無い思い出は、今もなお、温かく自分を迎え、包み込んでくれる。
しかし、幸せだったという思い出を抱いて生きることは、決して幸せではないのかもしれない。
たとえ、夢を見ているこの瞬間が、どんなに幸せだったとしても。
(あれ……?)
眠りの国から戻ってきた早瀬が、最初に覚えた感覚は、違和感だった。
見覚えの無い天井と、つながらない前後の記憶。
そして、水の中にいるかのように焦点の定まらない視界。
「あれ……?」
口に出してベッドから身を起こすと、掛けられていたタオルケットが胸元から滑り落ちた。 それを追って、水滴が一つ。 タオルケットに小さな染みを作った。
「あれ……?」
同じ呟きを繰り返して、左の指先を顔に当てる。
泣いている自分に気づいて、早瀬は目元をこすった。
「痛むんですか?」
無愛想だが心配していることはわかる声が届いた。 拭い終わった目を向ける。
滲みが消えた視界に映ったのは、大きめのシャツを着崩して立つ少女だった。
「あなた……夕べの……」
「おはようございます。 傷は、痛みますか?」
身体の痛みはさほど感じなかったが、昨夜の一部始終が突如として鮮明によみがえり、早瀬は身を固くした。
それでも、一度身震いしただけで恐怖を拭い去れたのは、目の前に立つ少女のことも全て思い出したからに他ならない。
その少女が心配そうな顔を崩していないのに気付いて、早瀬は笑顔を返した。
「ううん、全然大丈夫だよ。 ありがと」
本当は少しだけみぞおちや頬に痛みは残っていたが、職業柄この程度は日常茶飯事だ。 気遣ってくれている相手に言うほどではなかった。
「それは、良かったです。 昨夜は病院に連れて行くことも考えたんですが、あの男たちと一緒に救急車に乗ってもらうのはどうかと思ったので」
「う、うん。 それはちょっとね。 でも、それじゃあここは──」
「私の家です。 ──顔、洗いますか?」
広くはないが、少なくとも貧乏ではないよね、と早瀬が感想を抱くほどには立派なマンション。 その洗面台へと案内しつつ少女が早瀬に語ったところによると、今この家にいるのは彼女だけらしい。
その彼女も、普段は県外の学校で寮住まい。 学校が休みに入り寮も閉まったため帰省してきたところで、昨夜の事件に出くわしたのだという。
「あんな男たちがいるなんて、地元の人間として恥ずかしい限りですね。 ──早瀬さんは、ご旅行でしょうか」
「う、うん。 旅行っていうか──あれ? 私、自己紹介したかなぁ?」
タオルから顔を上げた早瀬に、少女は少しバツの悪そうな顔を見せた。
寝かせる前に外しておいた早瀬の髪留めを手渡しつつ、
「すみません。 勝手にポケットのお財布を見てしまいました。 お住まいか連絡先があるかと思ったものですから」
「えへへ、空っぽな中身とスタンプカードの山にびっくりしたでしょ? よく後輩のみんなからも言われるんだ」
早瀬は手早く左右で髪を留めながら、鏡ごしに笑った。
社長から渡された旅費は明日まで泊まる旅館の金庫に入れてあるため、財布の中は早瀬の少々寂しい個人資産と、団体発行のIDカードぐらいしか無い。
「それじゃ、もう知ってると思うけど」
いつもの髪型になった早瀬が向き直った。
「私は、早瀬葵。 今はちょっと休んでるけど、神奈川にある団体で、プロレスラーやってるの。 昨日は本当に助かったわ。 ありがとう!」
年上の女性の、屈託の無い笑顔。
慣れていないのだろう。 少女は戸惑い気味に目線を外した。
少しだけ頬が紅い。
「ご、ご丁寧に、どうも。 私は──桜井。 桜井、千里です」
「桜井……千里、ちゃん?」
一瞬だけ、奇妙な間が空いた。
「……えーっと。 桜井は、普通の桜井だよね。 ちさとって、せんりって書くちさと?」
「はい」
「そっかぁ。 いい名前、だね」
「そうでしょうか。 自分では、別にそれほど」
「そんなことないって。 桜井千里ちゃん──うん、いい名前だよ? ね?」
笑顔で押してくる早瀬に、千里はもう一度、今度は大きく目線を外した。
どうにもこういうタイプは苦手のようだ。
「私のことはいいです。 それで早瀬さんは、どうしてあんな場所で男たちに襲われてたんですか?」
あまりにストレートな質問がちょっとした仕返しだったとすれば、その効果はてきめんだった。
早瀬の顔から笑顔が消え、入れ替わりに千里の胸には小さな罪悪感が点る。
早瀬はそれでも、昨夜の恩人に黙っているわけにはと思ったのだろう。 ぽつりぽつりと事情の説明を始めた。
「──あのね。 私、ここには人を訪ねて来たの。 拳法の道場で師範やってる、なんかもう伝説的に強い女の人がいるって聞いて、それでね」
「プロレスの、スカウトというやつでしょうか?」
「う、うん。 まあ、そんなところ」
分かりやすい歯切れの悪さが、千里の耳に引っかかった。
しかし千里が黙っているうちに、早瀬は話を進めてしまう。
「昨日その人に会って──正直、悪趣味なオバサンだったんだけどね。 強いのかとか、協力してくれるかとか話してたら、試合することになっちゃったの。 そしたら──」
「早瀬さんがあっさりと勝ってしまった。 それで、逆恨みしたその人が門下生に早瀬さんを襲わせた。 ……そんなところですか?」
「うん。 なんかねー、伝説どころか、秒殺勝ちできちゃったから」
ソファに腰を下ろしつつ、早瀬が息を吐いた。
洗面所で立ち話もどうかと思った千里の先導で、場所はリビングに移っている。
「おかしいとは思ったんだぁ。 昔の武勇伝や、議員の旦那さんのことや、叔母さんの従兄弟の娘さんが『元・ミスもみじまんじゅうのプロレスラーだった』なんて話ばっかりして。 試合前には、遠路はるばるの交通費とか言って、一万円札が詰まった封筒渡そうとするし。 あーあ、せめてあのお金、貰っておけばよかったかなぁ」
「……受け取ったのに秒殺していたら、もっと大変なことになってますよ」
「あ、やっぱりそういうお金だったんだ。 わかってたら、試合しなかったのにねー」
あはは、と笑ったところを見ると、どうやらかなり天然らしい。
向かい合って座った千里もそう思ったかどうかは、無表情に隠れてよくわからなかった。
「千里ちゃん、それはそれとして」
「なんでしょう?」
「夕べの千里ちゃん、凄かったよね! 経験者の男の人たちを、あんな簡単にっ。 いつの間にか気を失ってたけど、私も途中までは見とれちゃってたもん!」
「──どの辺りまで、覚えてますか?」
「うーん。 三人目か四人目、かな。 どうして?」
「いえ、別に」
五人目との戦いでは、千里が綺麗さっぱり人質の早瀬を見捨てている。
「それでね。 見てた限りは足技ばかりだったけど、千里ちゃんはどんな武術やってるの? 空手、拳法、それとも、キック?」
目を輝かせて身を乗り出してくる早瀬に、千里は心持ち背を反らせた。
「早瀬さん」
「なに? ひょっとして、テコンドー?」
「これも、スカウトなんでしょうか?」
──早瀬さん。
早瀬の脳裏に、かつて耳にした一つの声が蘇った。
──強いストライカーを、連れてきなさいな。 そうすれば──
「…………」
「早瀬さん?」
「は? あ、はいっ」
「独学、です」
「えっ?」
「私のは、独学です。 幼い頃は道場に通っていましたが、今は何も。 技は、道場で習った記憶を頼りにしただけです」
早瀬は、ぽかんと口を開けた。
あの動きが、独学?
「あの……。 ホントに、それだけ?」
「いえ。 最近は、メールで通信教育みたいなものも受けています」
つうしんきょういく。
早瀬は口の中でその言葉を反芻した。 目まいすら感じて、テーブルに両手をつく。
追い討ちをかけるかのように、リビングの掛け時計が時報を鳴らした。 千里がそちらを見て、腰を上げる。
「朝ごはん、食べますか? 買い置きの冷凍食品でよければですけど」
「……いただきます」
早瀬はがっくりと俯いたまま、答えていた。
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