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Blue Moon [1]

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 雲一つ無い夜空に、月だけが蒼く輝いていた。


「くぅっ!」

 一瞬の油断で脚を払われ、しなやかな身体が地に倒れる。
 背中への衝撃こそ受身をとって抑えたが、起こそうとした肩は、次の瞬間左右から踊りかかってきた四本の太い腕に、為す術無く押さえつけられてしまった。

「離してよ……このぉ!」

 それでも気丈に抵抗の意志を示して足掻く女の顔を、乾いた音が張った。
 右、そして、左の頬にも。

「このアマがっ。 手こずらせやがって……!」

 手のひらを振って一旦身を起こしたリーダー格の中年男が、ひねりの無い毒づきの言葉に続けて、唾を吐き出した。
 土手の黒土を汚した液体には血が混じり、橋げたに申し訳程度でつけられた暗い水銀灯の中でもうっすらと赤い。
 見れば、腕を押さえる二人と周りに立つ三人の男たちは、いずれも屈強ではあるが、顔を腫らしたり青アザが見えたりと傷だらけで、息も荒かった。
 一方、強気に男たちを睨む女はといえば、先ほど殴られた頬以外にさしたる傷も見えない。
 二十代もせいぜい半ばに見える彼女が、一人で五人の男を一方的に痛めつけたと聞いて信じる者はごく少数であろうが、それが事実であることは、男たちの憎悪に満ちた目が証明していた。
 だが、どれだけ強くても女の身だ。 二人がかりで地面に押さえつけられては、どんなに暴れても服が乱れるだけで跳ね除けられない。
 むしろその足掻きが、憎しみに火をつけられた男たちの嗜虐心を大きく煽った。

「こいつ犯っちまいましょうや」

 誰が言ったのか。 普段であれば酒の上での冗談にもならない噴飯ものの言葉に、場の全員が思わず動きを止めた。

「……おいおい。 そこまではヤベえだろ。 うちの女ボス、いや、師範は

「たっぷり痛めつけてこい、後始末は全部旦那がやるから、つってましたよ。 議員さんが揉み消してくれんなら、半殺しもレイプも変わりませんや。 でしょ?」

そうだな。 どうせ、この女はよそ者だしなあ」

 男たちは互いの顔を見渡してから、あろうことか一斉に下卑た笑みを浮かべた。

「ちょ、ちょっと……あの、冗談、ですよね?」

 女の硬い声に応えてくれる者は皆無だ。 代わりに、欲望をぎらつかせた五対の眼が、女早瀬葵の瞳を捉えた。

「ひっ!」

 早瀬の唇から反射的な悲鳴が漏れる。
 胸を鷲掴みにする恐怖を何とかしようと一層激しく抵抗するが、仰向けにされた上半身は全く動かず、蹴りが届く位置には男たちも近寄ってくれない。
 それでも、暴れている限りは手出しできないはずと脚をばたつかせ、大声で助けを呼ぼうと息を吸ったが、

「おイタが過ぎるぜ、お嬢ちゃんよっ!」

 リーダー格が踏みおろした靴がみぞおちに入り、早瀬の吸った息を根こそぎ吐き出させた。
 動きを止めた早瀬の脚をすかさず男の一人が押さえ、酸素を求めて咳き込む口はリーダー格の男の手が掴んで、左右でくくった長い髪ごと頭を地面に押し付けた。 後頭部からの衝撃と呼吸困難が、早瀬の意識を朦朧とさせる。

「おいおい。 もっと優しくしてやんなよ」

 とからかう仲間をリーダー格はひと睨みで黙らせると、焦点の定まらない早瀬の目を見て、下卑た笑みをさらに深めた。 ご丁寧に、舌なめずりまでつけてみせる。

「へへっ、そそる顔つきしやがって。 恨むんなら、うちの師範に恥をかかせた、テメェ自身を恨むんだな」

 無遠慮にのしかかり、口を押さえた手を整った形の顎へとずらす。
 獣の顔が小さく開いた唇を蹂躙しようと迫り、臭い息が整った鼻梁をわななかせた。

 何かが、立て続けに二つ、風を切った。

 早瀬に覆いかぶさった男の動きを止めたのは、風の音ではなく、その「何か」が少し離れた地面とさらに離れた橋脚に当たった音だった。
 おそらくは、小石。
 しかし、男はその出どころを悩むよりも、目の前の美しい獲物に集中することを選んだ。
 欲望を満たすための動きが再開され、

「あ、危ねえぇっ!!」

 仲間の叫び声と、大きなものがすぐ傍らの土にめり込む音は、ほぼ同時に男の聴覚を伝わった。
 少し遅れて、ずらした目の視覚が今度の「何か」を認識する。
 子供の頭ぐらいはある石だ、と。
 小さな岩といっても良いそれが自分をかすめて落ちたのだと気付いて、さすがの男も慌てて身を起こした。

「な、何もんだ、テメェ!?」

 月並みな誰何の声を上げた仲間の声を追って、リーダー格の男を含む全員の視線が、一点に集中した。

 土手の上。
 月を頭上に従えて立つ細身の影が、男たちを見下ろしていた。

 月明かりに隠されて、顔までは見えない。
 それでも、腰まで流れたポニーテールとそれを結わいたリボン、そして膝上で揺れるスカートの輪郭が、その影が女性であることを男たちに教えてくれた。
 微かな風が、川原を吹き抜ける。

「高校、生……か?」

 半袖のシルエットと胸元でなびいたスカーフに気付いた、男の一人が呟いた。

すみません。 コントロールが悪いもので」

 セーラー服姿の影が紡いだ第一声に、男たちは全員眉を寄せた。
 その意味するところに全員が気付いたのは、少女が数歩ほど土手を降りてからだった。

「て、テメェか、あの石は!? あんなデカいの投げやがって、危ねえじゃねえか!」

「女性を押さえつけて乱暴しようというのは、危なくないことですか?」

 男たちが息を詰まらせたのは、少女の指摘が正鵠であったからと、背後の月光から解放された彼女の顔を見てしまったからだ。
 切れ長の眼と整ったフェイスラインは、美少女という意見に首を振る者はいないだろう。 年相応のあどけなさを無表情が覆い隠しているが、その分だけ凛とした印象が強く、そよ風に流れるポニーテールと相まって、何より月光に映えた。

(……格好、いい……)

 早瀬は、霞んだままの意識の内で呟いていた。

(なんでかな……天使、みたい。 ひょっとして……あの子……)

 その天使は、無造作にポケットを探ると、携帯電話を取り出した。 短いプッシュで耳に当てる。
 おそらくは警察への通報。 男たちが気色ばんだ。

「ざけんなっ!」

 早瀬の拘束に参加していなかった一人が、土手を駆け上がる。
 筋肉が目立つ野太い腕が瞬く間に少女に迫り、寸前、いや、躱したとも見えない少女の横を虚しく通り過ぎたところで、急速にスローダウンした。
 二歩、三歩、よろめいて、うつ伏せに倒れ伏す。

「もしもし。 救急車を、お願いします」

 声を失った男たちの間を、少女の落ち着いた声が流れていく。
 いつの間にか上げられていた少女の膝は下ろされ、電話の向こうへは現在位置に続いて、患者の情報が伝えられる。

「男の人が五人。 喧嘩か何かで負傷。 命には別状ないと思います。 あとは

 少女は、男たちを見渡した。
 睥睨、という言葉が似合う、忌々しげな視線で。

「全員、下衆、ですね」

 言い放った少女が携帯を閉じた瞬間、男たちは激昂した。
 早瀬をリーダー格一人に任せて、残り三人が殺到する。
 雄牛の群れを、女豹が迎え撃った。
 立ち位置の高さを活かして軽く跳ぶと、前蹴りが正面の相手の顎を打ち抜いた。
 着地際に襲った二人目の足刀を側面への足捌きでかわし、戻りが遅れた脚に沿って肉迫。 しなやかに軸足を内から刈った。
 空中でばたつき腰から墜ちる男への追撃こそ、最後の男が振り回す強烈な左フックに阻まれたが、少女はすかさず軸足を切り替えて、続く右のストレートに左の横蹴りをカウンターで合わせる。
 脇腹を押さえてよろめく相手を少女の二撃目が冷酷に突き放すと、男は土手を無様に転げ落ち、倒れ伏した。
 その男と最初の男が動かないことを少女が確かめたのは、無慈悲な踏み付けで二人目の男の意識を奪った後のことだった。

「久しぶりに帰省してみれば、こんなことに巻き込まれるとは。 厄日です」

 溜め息をついてつまりはここまで息一つ乱すことなく、制服まで跳ねた土を払い落とす少女。
 残ったリーダー格の動揺ぶりは、滑稽や哀れを通り越してあっぱれなほどだった。

「て、テメェ、そこまでだ! この女がどうなっても!?」

 ぐったりとした早瀬を引き上げ、後ろから喉に腕を回して盾にする。
 そこまでは良かったが、少女が何の感慨も逡巡も見せずに近づいてくるのを目の当たりにすると、男の狼狽は瞬く間に沸点まで達した。

「こ、この、人質っ! 女が、こいつ! この、ガキがぁっ!!」

 放り投げるように人質の早瀬を少女に向かって突き出すと、自分は一拍置いて地を蹴った。
 少女が早瀬を受け止めた隙を狙う。 その程度の計算をする理性はかろうじて残っていたのだが、

「やはり、下衆でしたね」

 倒れ掛かってくる早瀬を少女が鮮やかに無視して避けた瞬間、男の目論見は全て水泡に帰した。
 跳ね上がった少女の脚が男の股座へと綺麗に叩き込まれ、たまらない衝撃が男の脳天まで突き抜ける。
 絶叫すら上げられず、泡を吹いて屈み込む男の側頭部を回し蹴りで刈り倒すと、横倒しで意識を失った早瀬の方を振り返って、

「人を守るのは、苦手なので」

 少女は、少しだけ申し訳なさそうに呟いた。


 雲一つ無い夜空に、月だけが蒼く輝いていた。


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あとがき


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