46分と、23秒。
『アテナクラウン・V1サバイバル』決勝、IWWF世界ヘビー級王座戦。
後世まで語り継がれる激闘を制したのは、日本から来た挑戦者、マイティ祐希子。
王者・ダークスターカオス必殺のダークスターハンマーを切り返して繰り出した新技・JOサイクロンでのカウント2.9から、祐希子はさらに十八番のムーンサルトプレスへと一気に繋げ切って、ついに勝利を告げるカウント3を奪い取った。
これより後、実に五年の長きにわたって世界王座に君臨し続ける“無敵の女神”、“炎の女帝”の、これが誕生の瞬間だった。
そして──。
祐希子の勝利と新王者の誕生を祝う、リングの上で。
市ヶ谷は今、愛する祐希子の目の前に、その姿を現したのだった。
「……市ヶ谷?」
挑発、悪態、憎まれ口、あるいは問答無用の乱闘まで警戒して市ヶ谷相手に身構えた祐希子が、怪訝そうに声を掛けてくる。
思いつめた顔で自分を見つめる市ヶ谷の態度が、いつもとは全く違うことに気付いたのだ。
気付いたのは、祐希子だけではない。 勝者を称え、祐希子と握手を交わしたばかりのカオス。 抱きつかんばかりに祐希子を祝福していた来島と菊池。 そして、リング下にやってきた市ヶ谷を促してリングへ招き入れた南。 祝福の紙吹雪と音楽と歓声が渦巻く中で、彼女たちは皆、そこだけ時間が止まったかのような不思議な錯覚を覚えていた。
市ヶ谷と祐希子、決して相容れない宿敵であるはずの、二人の間に。
「…………祐希子」
来島と菊池は、顔を見合わせた。 これが、この弱々しく儚げな声が、市ヶ谷の、あの市ヶ谷の声なのだろうか。
「……祐希子、その……わたくしは……今日……」
「市ヶ谷──ありがと」
市ヶ谷は、驚きに目を見開いた。 予想だにしなかった祐希子の言葉に。
そしてなにより、祐希子が自分に向けた、とても照れ臭げな笑顔に。
「あたしさ、今日カオスと戦ってて気付いたんだ。 今まであたし、アンタとは何度も何度もやりあって、その無茶苦茶なパワーにしょっちゅうボコボコにされてた。 あたしはそれが悔しくって、必死で練習して研究して対抗策編み出してきた。 そんなアンタとの闘いが、今日すっごく役に立ってる、てことにね」
「わたくしが……今日、貴女の……役に?」
「そっ。 ま、実は今日だけじゃないかも、なんだけどさ」
そこで、祐希子は一旦言葉を止めた。 言おうか言うまいか迷っているそぶりを見せて、しかしすぐに思い切って口を開いた。
「出会った時から今まで、アンタはいっつもこれ以上ないくらいムカツク形であたしの前に立ち塞がってくれた。 あたしはその度、アンタにだけは負けてやるもんかって気持ちで頑張ってこれた。 だから今、あたしはこうして世界のベルトを巻いていられるのかもしれない。 あたしが強くなれたことの、まあちょっとぐらいはアンタのおかげなんだって……今は素直に、そう思えるんだ」
「祐希子……」
「アンタは、大嫌いなあたしからこんなこと言われたって嬉しくないだろーけどさ。 あたしが言いたいから言っておくの。 ──ありがとね、市ヶ谷!」
白く輝くカクテルライトの下で、祐希子の笑顔が弾けた。
急に胸が締め付けられたようで、呼吸もできない。 決して苦しいわけではなくむしろ心地よいが、熱に浮かされたように思考はまとまらない。 市ヶ谷は、自分が何をやっているかももはやわからないまま、ただ一歩前に出ていた。
「祐希子……」
愛する人の名を、もう一度呼んだ。
「ん?」
「わたくしも……あなたに言っておきたい、言わなければならないことが、ありますの……」
──『おめでとう』。
「祐希子、おめ……お……おめ……」
詰まって出てこない言葉──想い。 それを絞り出すために、市ヶ谷は宙を仰いだ。 大きく深く、息を吸う。 それから、吐き出す。 決意とともに。
「……お……」
その時、リング上で誰かが一つ、小さな息を吐いた。
溜め息という名の、息を。
「お……おほほっ。 オーッホッホッホッホ!! おめでたい、おめでたいですわね、祐希子! まったく貴女はおめでたい小娘ですわ! オーッホッホッホッホ!」
ファンファーレが如く高らかに鳴り響く、嘲りと侮蔑の笑い声。
かたずを呑んで成り行きを見守っていた来島が、菊池が、カオスまでもがポカーンと大口を開けて立ち尽くし、南は頭痛を堪えるかのように額に手を当てた。
「一生分の運を使い果たしてのまぐれで王者になっただけの貴女が、なーにを勘違いして『全部終わったやり遂げた』みたいな顔をしていますの!? しかもあろうことか、貴女からすぐベルトを奪ってしまうこと確定の偉大なるこのわたくしに対して、上から目線で『ありがとう』ですって? まったくもっておめでたい発想、おめでたいオツムですわね! これはもう笑うしかありませんわよ! オーッホッホッホッホ!!」
「……ふぅん。 そっかぁ。 そうなんだぁ」
むしろ明るいその声で、呆けていた来島と菊池が我に返った。 傍らの声の主を見つめ、揃って唾をごくりと呑みこんだ。
祐希子の笑顔の下で、握りしめられた両の拳が震えていた。
「あたしに言っておきたいことって、やっぱそーゆー話だったのねー。 うんうん、ホントにアンタらしいわぁ。 期待を裏切らないでくれてありがとねー、市ヶ谷」
「あらあら、何を早とちりしてるんですの? わたくしが言いたかったことはむしろこれから。 正解は『ズン胴の貴女にそのベルトは似合わないから、さっさとわたくしと試合をしてボロ負けして譲り渡しておしまいなさい』ですわ。 そのベルトに相応しいレスラーは、やはりこのわたくしを置いて他にはおりませんものね! オーッホッホッホッホ!!」
「な、なんですってぇ!? 何を勝手なこと言ってんのよ、この成金高飛車ワガママ女!!」
「そうだ。 勝手な話をされては困るな、イチガヤ」
今にも飛びかからんとする祐希子を押しとどめるように、カオスが前に出た。
「たった今、次のコンテンダーは私だ、という話をユキコとしていたところだ。 ここは順番を守ってもらうぞ」
「あら、その順番を決めるのは、新王者の所属する私たち新日本女子ではなくて?」
カオスを振り向かせた声は、リング下から上がってきたパンサー理沙子のものだった。
さらに、ブレード上原、山田遥、小沢佳代、といった面々も、続々とロープをくぐってくる。
「第一、先輩を出し抜いてそーいう話をするのはよくないわ。 やっぱりここは年功序列っていうものがあると思うの。 ねえ、京子?」
「え? そ、そーだよ、理沙子。 いーこと言うじゃん。 というわけで、先輩を優先しろよな、祐希子?」
「ちょっと待った!! 祐希子、ここはボクや佳代たち同期にチャンスを与えるのが友情ってモンだろ!?」
「そーだそーだ、遥ちゃんの言うとおり! ね、恵理ちゃんもそう思うでしょ?」
「そ、そーなのか? それなら俺も立候補しよーっかな。 いいだろ、祐希子?」
「えー? 祐希子さん、カワイイ後輩にはチャンスをくれないんですか?」
来島と菊池まで加わって、いつの間にやら結成された世界王座挑戦権要求包囲網が、祐希子に詰め寄ってくる。
「ちょ、ちょっと、みんな!?」
あまりの展開に目を白黒させた祐希子は、人垣を避けるように首を伸ばして、
「こらぁ、市ヶ谷! アンタが変なこと言いだすから、なんかおかしなことになっちゃったじゃない!! どーしてくれんのよこのバカ女!!」
「オーッホッホッホッホ! なーにを人のせいにしておりますのやら! これも貴女の人徳の無さと日頃の行ないの悪さゆえ。 良い機会ですから、その無い胸にたっぷり反省を刻みこめばよろしいのですわよ!」
「こ、このぉ……っ!」
祐希子は歯ぎしりするが、取り囲んだ対戦要求連合軍が密着し、悪ノリして服まで引っ張ってくる状況では、身動き一つ取れない。
ついに、祐希子は爆発し、大声で叫んだ。
「ああん、もう! いーわよ、やってやろうじゃないの! こーなったらみんなまとめてかかってらっしゃい!!」
「オーッホッホッホッホ! いい気味ですわね、祐希子!! オーッホッホッホッホ!!」
胸をそびやかせて心底愉快そうに笑う市ヶ谷。
その頬をとめどなく流れ落ちる涙の輝きに気付いた者は、世界にただ一人として存在しなかった。
「……ほんと、素直じゃないんだから」
まだ喧騒が続くリングと、そこに降り注ぐ歓声や野次にも背を向けて。 南は独り、バックステージにつながる暗い通路を歩いていた。
「市ヶ谷のあの性格は死ななきゃ治らないわね。 一生やってればいいのよ、もう」
悪態とともに口をついた溜め息は、先ほどリング上で吐いたものよりも、少しだけ大きかった。
その口に、持ちあげた左手の指先が触れる。
もう随分と昔、控室で市ヶ谷のファーストキスを奪った、その唇に。
市ヶ谷はきっと、考えたことも無いだろう。
女子校で鍛えられたとはいえ『そっち』の趣味は無いと言った自分が、なぜ市ヶ谷にキスをしたのかを。
唇を奪ったお詫びとは言ったが、それだけで自分が他人の色恋沙汰にここまで協力するような人間かどうかを。
そもそもそれ以前に、なぜ一匹狼の自分が、正式でないとはいえ頼まれてもいない市ヶ谷のタッグパートナーを務めたりしていたのかを。
そして何より──なぜ、祐希子に対する市ヶ谷の秘めた想いを、自分が察することができたのかを。
「まあ……上原さんには、気付かれてたのかしらね」
VIPルームでのやり取りを思い起こしながら、南は辿り着いたバックステージへの扉に手をかけた。 力を込めて、重いドアを押し開ける。
大変なんだよな。 片想いってのは、さ。
「まったくだわ」
扉の向こうに身体を滑り込ませながら、南はリングを振り返った。
終わりそうにない騒ぎの中で、これも終わりそうにない高笑いを続けている市ヶ谷。
その立ち姿に、恨みにも似た、しかし決してそうではない色をたたえた瞳を向けて。
「馬鹿……。 人の気も知らないで」
素直じゃない彼女が、胸に秘めた想い。
その一片をほんのわずかだけ言葉に乗せて、南は後ろ手に重いドアを閉めた。
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