南利美は、わざとらしいほど大きく長い溜め息をついた。
半分は演技だったが、半分は本気の溜め息だ。 それが終わると、これも半分は本気で、頭が痛いことを表現するよう額に右の人差し指を当てて、首を軽く振ってみせた。
「それで? どうして私を呼び出したのか、教えてくれないかしら。 市ヶ谷?」
「ですから! それを先ほどから申し上げているではありませんの!」
一回、二回。 二人の間に置かれたテーブルが叩かれ、派手な音を立てた。 テーブル自体はいかにもプロレス巡業会場に似つかわしい折りたたみ式の安物だが、掛けられたヨーロッパ直輸入の高価なテーブルクロスは部屋の主の私物だ。 この部屋は、市ヶ谷麗華──ビューティ市ヶ谷専用にあてがわれた控室なのだった。
「初めて入ったけど、こんな遠征先でもいろいろ飾り付けてるのね。 入団契約で常に専用の控室を用意するよう要求したのなんて、マット界広しと言えどあなたぐらいじゃない?」
「話を逸らさないでいただきたいですわ!」
テーブルがもう一度、派手な音を立てた。
市ヶ谷から見て斜め、むしろ横向きに近い角度で座った南は、哀れなテーブルの振動を気にする風も無く、テーブルの向かいに立つ市ヶ谷に横目を送った。
「じゃあ、話を戻すけど。 つまりあなたは、私たちが起こした今日の『反乱』について声をかけられなかったことが腹立たしい。 自分も一緒に参加したかった、と。 そういうこと?」
「だ、誰もそのようなことは申し上げておりませんわ!!」
今度は立て続けに三度、テーブルが叩かれた。
「わたくしはただ、じきにわたくしが得られるはずだったアジアヘビーへの挑戦権を実質的にうやむやにされたこと、それが許せないだけですわ! 上原さん亡き今、次に理沙子さんに挑戦すべきは若手最強にして次代の世界王者、即ちこのわたくししかいなかったはずですのに!!」
「いや、上原さんは死んでないわよ。 多分」
「失踪中なら同じことですわ! とにもかくにも、わたくしとは格も実力も月とスッポン、遥か遠く及ばないあの忌々しい祐希子ごときが無謀にも理沙子さんに反旗を翻し、多くの条件付きとはいえわたくしを差し置いて次の挑戦者のような扱いをされた今日の茶番劇が、わたくしはとにっっかく許せませんの!! それを知りながら、止めるどころか一緒に名乗りをあげた貴女も同罪ですのよ、南さん!?」
「あら。 この部屋、冷蔵庫もあるのね。 開けていい?」
「南さんっ!!」
ひときわ大きな音がまたも部屋の空気を揺るがせた。 南は、まだ壊れていないのが不思議なくらいのテーブルをちらりと見やってから、
「落ち着きなさい、市ヶ谷。 一人でそれだけ騒げば、あなたも喉が乾いたでしょうに。 ……まあ、ね。 少しは悪かったと思うわよ」
軽く座りなおして、南はテーブルに正対した。 立ってテーブルに手をついた市ヶ谷を見上げる形で、軽く両手の指を組む。
「あなたの気持ちも考えずに、私たち四人だけで革命軍を立ち上げたのはね」
──マイティ祐希子、反乱。
おそらく明日のスポーツ紙の一面には、この類の見出しが並ぶだろう。
シリーズ最終戦となった本日のメイン戦直後。 新女が誇る不動にして最強のエース、アジアヘビー王者・パンサー理沙子に対し、IWWFジュニアヘビー王者とはいえまだまだ若手扱いのマイティ祐希子が、ボンバー来島、菊地理宇、そして南利美と組んで、『あなたを倒して世界へ行く!』と大風呂敷とも言える宣言を携えて反旗を翻したのだ。
むろん、市ヶ谷も──祐希子とは若手最強の座を争うライバルにして不倶戴天かつ犬猿の仲、そしてなにより新女史上最高の目立ちたがり屋、という評判がすっかり定着した市ヶ谷も、黙ってそれを見ていたわけではない。
すかさずその場に割り込んで自分こそが打倒・理沙子の一番手だと主張はしたが、完全に後手を踏んだどころか客観的には蛇足の感が否めなかった。 脇役へと追いやられた市ヶ谷が不満を抱くのも無理はないことかもしれない。
「まあ、それはその通り、反省いただきたい点ですわね。 正式なものではありませんが、南さんはわたくしのタッグパートナー。 祐希子などとは違い見どころがある御方とわたくしもいたく評価しておりますのに、その貴女がわたくしに何の断りも相談もなくあのような」
「違うわ」
市ヶ谷が言葉を途中で止めたのは、小声と言ってよいその否定ゆえではなく、南がゆっくりと立ち上がったためだった。
「あのね、市ヶ谷。 私が言ってるのはあなたの本当の気持ちのことよ」
「わたくしの……本当の、気持ち?」
「そ。 まったく素直じゃないんだから」
テーブルを回り込んだ南が、市ヶ谷の肩に手を添える。 身長はわずかに市ヶ谷の方が上だが、テーブルに手をついている分、今は南の目線の方が高い。
「革命軍に参加したかったんでしょ? 誰はばかることなく一緒にいられる大チャンスだったものね。 ──愛しの、祐希子と」
なっ、という声は不意に覆いかぶさってきた柔らかな感触に封じ込まれた。
南の、唇で。
「んぅぅっ!?」
あまりに予想外だったのだろう、目を白黒させるだけの市ヶ谷などお構いなしに、南は合わせた唇を巧みにずらすと舌を滑り込ませた。 言うまでも無く、市ヶ谷の唇のさらに先へと。
「んんんーーーっ!!!」
電流のように全身を走った生まれて初めての感覚が、ショックで機能不全状態に陥っていた市ヶ谷の運動神経を活性させた。 ぐい、と南の肩を両腕で押しのける。
「み、みみみみ、南さん!?」
「随分と甘めのリップね。 少し意外」
驚天動地の市ヶ谷とは対照的に、南の感想は冷静だった。 チロリと覗いた舌が自身の唇を軽く舐める。
「まあ、ネンネちゃんにはお似合いかしら。 上流社会や柔道界は知らないから実は経験豊富かもとか思ったけど、やっぱり若葉マーク──どころか経験ゼロなんでしょ。 道理で祐希子にも小学生男子みたいなアプローチしか取れないわけね」
「ま、まままま、まさか。 も、もももも、もしかして貴女!?」
「何よ、マ行ばっかり連呼して。 言っておくけど、私に『そっち』の趣味はないわよ。 ただ、女子校のソフトボール部に何年もいればいろいろと鍛えられるの。 これくらいは当然よ」
当然かどうかの真偽はともかく、平然と言い切られては市ヶ谷に反論の余地は無かった。 第一、反論してどうなるというものでもない。
そう。 あの入団会見の日から、ずっと胸に隠していた想い。 誰にも気づかれていないはずの祐希子への想いを、ずばりと言いあてられてしまったのだから。
おまけに、あろうことかキスまでも──。
「……ファーストキスを奪ってしまったのは、ごめんなさい」
唇に手を当てた途端ゆでダコのように赤くなった市ヶ谷に言いながら、南は後ろに下がった。 座っていた椅子に再び腰掛けると、
「だから、少しくらいは協力してあげるわよ。 私に何をしてほしいの? 市ヶ谷」
「み、南さん……貴女、この話を誰かに……?」
「この話って? あなたが実は祐希子のことを食べちゃいたいほど愛してるって話?」
ド派手な音がして、慌てふためいた市ヶ谷がすっ転んだ。 今どき漫画でもやらないような反応など目にも入らなかったかのように、南は変わらぬトーンで話を続ける。
「心配しなくたって誰にも言ってないわよ。 先輩方の中には気付いてる人もいるかもしれないけど、皆黙ってくれてると思うわ。 そういう人は大抵同類だから」
「ど、同類……?」
「私たちの代にはいないみたいだけどね。 小沢と山田は少し怪しいけどまだそこまでの仲じゃないし、羽田もノーマル。 祐希子なんかそもそも色恋には興味ゼロよ。 あなたにとって良い話かどうかは、わからないけど」
「……来島さんと菊池さんはどうですの?」
「あの二人? そうね──あなたにとっては気になるわね。 どっちも祐希子べったりで革命にも参加してるけど、来島についてはご心配なく。 暑苦しいくらい極めて健全な友情関係ってとこよ。 問題があるとすれば菊池かしら。 憧れはたやすく恋に変わるものだし……」
ここで南は苦笑した。 いつの間にか机の上に身を乗り出して、食い入るように自分を見つめる市ヶ谷に気が付いたのだ。
「そんなに気になるなら、やっぱり私たちの仲間に入る?」
「ば、バカなことをおっしゃるんじゃありませんわ!!」
市ヶ谷は身を起こすと、そのまま反り返るほどに胸をそびやかした。
「近い将来に世界をも制する偉大にして華麗なるこのわたくしが、なにゆえに祐希子ごときの下風に立たねばなりませんの!? よしんば共に戦うとしても、それは貴女たち四人が礼を尽くしてわたくしを盟主に奉じたいと懇願してきた場合のみ! まあもちろん、もしも南さんがその橋渡し役を務めたいとおっしゃるのなら、わたくしとしても交渉のテーブルにつくことはやぶさかではありませんけれどね。 オーッホッホッホ!」
「そのうざったい物言いや高笑いも、単なる強がりだと思えば可愛く見えるから不思議ね」
「……何かおっしゃいまして?」
「いいえ別に」
即答すると、南はそこで一呼吸置いた。 口の端に浮かんだままの苦笑を軽い咳払いで追い出すと、真剣な声音で続ける。
「プライドが高すぎるのもいろいろ大変ね、と思っただけよ。 でもあいにく私なんかが交渉役になっても、祐希子があなたの下につくことはありえないわ。 だからってこのまま小学生みたいに喧嘩売って気を惹こうというのも逆効果。 祐希子の気を惹きたいなら、別の手を考えないと」
「べ、別にわたくしは、祐希子の気など……!」
「じゃあ、一生このまま犬猿の仲でいいのね?」
「…………。 どうすれば……よろしいんですの?」
強気な態度を一転、捨てられた子犬のような瞳を向ける市ヶ谷を見て、あら可愛い、と南は口の中で呟いてから、
「あなた、──は知ってる?」
と国民的人気を誇る子供向けアニメの名を唐突に挙げて、市ヶ谷の目を丸くさせた。
「はぁ? あのひみつ道具とやらが出てくるアレですの? あいにくわたくし、詳しいことは一切存じあげませんけれど……」
「ねえ、市ヶ谷。 あなたの物は、誰の物かしら?」
「わたくしの物に決まっていますわ」
「じゃあ、他の人の物で、あなたが欲しい物は?」
「遠からずわたくしの物ですわね」
「そう! それよ!!」
テーブルが本日何度目かとなる派手な音を立てた。 初めてその音の聞き役に回った市ヶ谷が思わず固まった前で、南はクールな彼女には珍しく握りこぶしまで作って熱い演説を始めた。
「俺の物は俺の物。 お前の物は俺の物。 そんなあなたの目指すべき道は、『劇場版ジャ○アン効果』、これしかないということよ! 普段ひどい行ないばかりで祐希子の評価も最低最悪どん底なあなただからこそ、ちょっとした好印象を与えることで一発逆転をはかるチャンスがあるの! 地上で一番大嫌い顔も見たくないという気持ちを、意外にアイツはいい奴かも、という大きな印象ギャップを与えて方向転換させ、好きという気持ちに変えられるチャンスがね!」
「ちょっと、あの。 南さん」
「なによ、話の腰を折って」
「最低最悪とか大嫌いとか……わたくし、そこまで祐希子に嫌われてるんですの?」
「……自覚、無かったの?」
「いえ、あの……その、少しは」
「まあいいわ。 とにかく!」
南はびしり、と市ヶ谷の鼻先に人差し指を突き付けた。
「市ヶ谷。 あなた、祐希子に勝ちなさい」
南の突き付けた指のすぐ先で、市ヶ谷の目が何度もしばたかれる。
「……はい?」
「だから、試合で祐希子に勝ちなさい。 それも、ただの試合じゃない。 私たち革命軍が目指す打倒・理沙子さんへの道、その最後の最後にあなたが立ち塞がって理沙子さんへの最終挑戦権を賭けた試合をやるの。 そして、そこで祐希子を倒すのよ」
市ヶ谷のまばたきが止まった。 その目でまじまじと南を見つめて、
「南さん……貴女、それでよろしいんですの? 貴女も革命軍の一員、ですわよね?」
「別に、裏切るわけじゃないわ」
南は眉をひそめて言った。 市ヶ谷の声に混じった非難めいた響きに気付いたのだ。
「祐希子やあなたと違って、私は誰がアジアヘビーを獲るかにそこまでこだわってないの。 もちろんチャンスと見れば私が獲るけど、それが目的じゃない。 理沙子さんを倒して世界の舞台へと通じる風穴を開く役目は、他の人でも構わないと思ってるわ。 祐希子でも来島でも、そしてあなたでもよ、市ヶ谷」
「…………」
相手の真意を量るかのように押し黙った市ヶ谷に、
「祐希子を倒しなさい、市ヶ谷」
南は突き付けていたままの人差し指を下ろしながら言った。
「できれば完膚無きまでに。 そして打ちひしがれた祐希子に手を差し伸べ、革命軍入りを表明するの。 ともに理沙子さんを倒して世界に羽ばたこう、とね。 祐希子にも異存は無いでしょうし、かなりあなたを見直すと思うわよ。 もちろん、理沙子さんと戦うのは勝ったあなたで構わない。 これなら祐希子と行動を共にできる上、あなたのプライドも守られると思うけど、どうかしら?」
「……面白いですわね」
市ヶ谷の顔が笑みの形を作った。 それは、自信満々で唯我独尊、傍若無人で傲岸不遜を絵に描いたような、南がよく知るいつもの市ヶ谷の表情だった。
「何よりも、このわたくしが祐希子を完膚無きまでに倒す、というところが気に入りましたわ! 無論わたくしが祐希子ごときと戦えばその結果は火を見るよりも明らかですけれど、かてて加えてあの忌々しい祐希子のハートまでも射止めることができようとは! まさに一石二鳥のお話ですわね! さすがですわ、南さん!!」
ハートを射止めたい相手にどうして「ごとき」とか「忌々しい」とか付けられるんだか、と思いつつ、南は別の言葉を口にした。
「そう簡単に行くかしら。 油断しないことね。 ──祐希子は、強いわよ」
「あら、強いのは当然ですわよ。 何といっても、このわたくしが見込んだ相手ですもの」
市ヶ谷はしれっと答え、しかしその後の言葉も忘れなかった。
「もちろん、わたくしの方が遥かに強いですけれど。 むしろ心配なのは、貴女たち革命軍がちゃんとわたくしの所まで辿り着けるかの方ですわ。 南さんもしっかり精進して、一日も早くわたくしの元に祐希子を連れてきてくださいましね」
「革命の目的はそこじゃないけど……それこそ、ご心配なく。 私たちも私たちの仕事は果たすから」
「ウフフフフ、よろしいですわ。 俄然楽しみになってまいりましたわね! さあおいでなさい、祐希子! このわたくしが大いなる愛をもって貴女を受け止め、完膚無きまでに叩き潰してさしあげますわ! そしてその後は……ウフフフフ、これはもう笑いが止まりませんわね! オーッホッホッホッホ!!」
と、結局いつもの市ヶ谷高笑いリサイタルが開催される運びとなった室内で、
「素直じゃないのって、いろいろと大変ねぇ」
南はそっと呟くと、溜め息を一つついた。
「……という話をしたのも、この部屋だったわよね。 市ヶ谷」
右手で頬杖をついたまま、南は控室を見渡した。
遠征先だというのにわざわざ無意味かつ過度な装飾を施された、ビューティ市ヶ谷専用控室。 南がこの部屋に入るのは今日が二度目のこととなる。
「あれから私たち革命軍は連戦連勝。 それぞれが高い勝率をおさめ、祐希子と来島はアジアタッグのベルトも勝ち取った。 一方のあなたも正規軍では理沙子さんに次ぐナンバー2の座を確保。 そしてついに、あなたと祐希子の大一番、理沙子さんへの挑戦を賭けた一戦が組まれることになったわけよね」
「…………」
南はテーブルの向かいをチラリと見やった。 無言で座る市ヶ谷の姿を確認してから、
「私たちはもちろん、あなたにとっても、全ては順調に進んでいたわ。 恐ろしいほど順調にね。 そうでしょう、市ヶ谷?」
「…………」
南は市ヶ谷の反応を待ったが、何も返ってこないと知るや、自分から次の言葉を発した。
「そう、全ては順調だった──今日の試合まではね」
ぴくりと市ヶ谷の肩が動いたが、表情は南には見えなかった。
市ヶ谷は、試合を終えたばかりのリングコスチュームで、机に上半身を投げ出すように突っ伏しているのだった。
その背に、南の言葉が鋭く突き刺さる。
「今日のメインで、あなたが祐希子にこの上無く完膚なきまでに叩き潰されるまでは」
そう。
市ヶ谷は、負けた。
識者の誰もが──市ヶ谷本人は除いて──実力伯仲と評し、好勝負が期待されていた祐希子 VS 市ヶ谷のメインイベントは、それはもう意外を通り越して拍子抜けするほどあっさりと、祐希子が勝ちを収めてしまったのだった。
「10分もたずにムーンサルト一発でスリーカウント……。 確かに祐希子は絶好調だったけど、あれだけ自信満々な態度取っておいてこれって、いくらなんでもひどいんじゃないの?」
南の舌鋒は普段から鋭いが、これはもう糾弾と言って良いレベルだった。 それだけ市ヶ谷の負けっぷりに呆れ果てているのかもしれない。
相手の反応が無いと見るや、南はさらに言葉を続ける。
「私はね、市ヶ谷。 念のためあなたが惜敗した場合のシナリオも考えてたのよ。 あなたのプライドを考えて言わなかったけど。 ただ、これだけ完敗されると全ては水の泡。 試合後の祐希子はもう完全に理沙子さんしか見えてない感じだったし、計画は完全に白紙ね、白紙。 今回はもう諦めなさい」
そこまで言い切って、南は再び市ヶ谷の反応を待った。
沈黙のまま、十秒近い時が流れる。
頬杖からゆっくりと顔を離した南が、「ここまでね」と告げて席を立とうと心に決めた時、
「南さん」
妙に静かな市ヶ谷の呼びかけが、南に届いた。 相変わらず、その上体は机に伏せられたままだ。
「なによ。 反論なら聞くわよ」
「プランBは、おありですの?」
意外な単語だったのだろう。 南の眉間に微かな皺が浮いた。
「プランB? つまりは代案ってこと? そんなもの、あるわけないでしょ。 だから白紙だと言って──」
「わたくしには、ありますのよ」
ゆらり。
その表現が何よりも相応しい挙動で、市ヶ谷が立ち上がった。 その顔が伏せられたままなことに、何故か南はぞっとした。
「市ヶ谷……?」
「わたくしは今の今まで、噛みしめておりましたの」
何をだろうか。 敗北の屈辱か、勝負の恐ろしさか、己の非力さか。 いや──
違う。
こんな不敵で楽しげで傲慢な笑みを浮かべた顔を上げる人間が、そんなものを噛みしめるはずがない。
「このわたくしの予想をも遥かに超えて強くなり、まさにわたくしの伴侶としてふさわしい存在となりつつある祐希子! そして、その祐希子のハートを射止める策として、わたくしでは思いもつかなかった『劇場版ジャイ○ン効果』とやらを提示してくださった南さん! わたくしは今、かつて無くこの上も無く胸にこみ上げる、お二人への感謝の念というものを噛みしめていたのですわ!」
宙を相手に演説を始めた市ヶ谷を、南は黙って見つめていた。
先ほどまでのように呆れているのではない。 市ヶ谷という存在が放つ巨大なオーラに、あの南が圧倒されているのだ。
「お二人のおかげで、わたくしは思いつきましたのよ! プランB、いいえ、これこそが真のプランAと呼べる最高の計画を! 団体のトップにも立っていないライバル関係だとか、アジアヘビーなどというローカルタイトルを巡る争いだとかでは、やはりこのわたくしにはスケールが小さすぎましたの! 南さんの言う『ジャイ○ン効果』の印象ギャップをさらに大きくするためにも、わたくしはもっともっと巨大な壁かつ偉大な嫌われ者となり、最高の舞台で祐希子の前に立ち塞がらなければならないのですわ! ──そう、全世界が注目する至高にして究極たる決戦の場で!!」
南の座る椅子が、小さく軋んで音を立てた。 息を呑んだ南の瞳に、市ヶ谷の自信と余裕に満ちた笑みが映っている。
「南さんも……ご存じですわね。 このプロレス界における世界最高の証と、その持ち主の名を」
「……アメリカの、IWWF世界ヘビー級王座。 王者の名はレミー・ダダーン……。 市ヶ谷、あなたまさか……」
「これからが楽しみですわね、祐希子! 貴女の首、いえ貴女のハートは、このビューティ市ヶ谷がいましばらく預けておいてさしあげますわ! オーッホッホッホッホ!!」
一際大きな高笑いが、南の身体を大きく震わせた。
この日から、約半年の後。
アジアヘビーを理沙子から奪い、さらには AACヘビー級王座までも引っ提げてアメリカへ乗り込んだ祐希子や南たちの眼前で、世界最強の証・IWWF世界ヘビー級王座は、数年ぶりにその持ち主を変えることになった。
新王者の名は、ビューティ市ヶ谷。
入団会見の場で世界王座奪取を宣言した彼女は、類い稀なる才能と圧倒的なパワー、そして溢れんばかりのモチベーションの力により、デビュー後わずか数年でその宣言を現実のものとしたのだった。
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