どう考えても、それは女子柔道日本一を決める決勝戦、その真っ只中の選手がつぶやく台詞ではなかった。
「つまらないですわね、貴女」
あからさますぎる挑発。
しかし、そんなもので容易く動じるような人間であれば、昨年までこの大会を四連覇することも、二度の世界選手権を制することもできはしない。
少なくとも表情や動きには何の乱れも見せず、あえて影響を探しても微かに釣り手の力を増しただけで、“女王”は前に出た。
先の言葉を紡いだ相手が逆らわずに後退する、その距離と速度までも瞬時に判断して引き手を絞り、すかさず放つ小内刈り。 三回戦で一本を奪った技もこの決勝ではわずかに重心をずらす程度の効果しかなかったが、それで充分ということだろう、彼女は絶妙の体捌きで相手の懐に滑り込んだ。
本命にして必殺の背負い投げ。
文字通り世界を制したスピードとテクニック、そしてタイミング。 全てが完璧に揃った芸術的な技が、彼女自身生涯最高と感じられる入り方で掛かって──
「………っ」
聞こえた吐息は、あるいは冷笑だったのかもしれない。
そう思った時、彼女の身体のベクトルは反転した。 前転に近い動きを強制的にキャンセルさせられ、後方へと引っこ抜かれる。 いけない、という思考は上下に高速で流れる天井の映像に取って代わられ、鍛え上げられたはずの身体と精神が何らかの反応を見せようとした時、その背は既に畳に叩きつけられていた。
受身も充分にとれなかった凄まじい裏投げの衝撃に、一瞬だが気が遠くなる。 会場中の音が彼女の意識から消える中で、
「……なるほど、さすがは世界王者。 お見事と言ってもよい背負いでしたわね」
ただ一つのささやき声だけが、耳に届いた。
「ですが、圧倒的なパワーの前ではいかなるスピードもテクニックも、その全てが無意味」
言葉よりも、目に映ったつり上がった唇の端が、彼女の意識を完全に覚醒させた。 途端に耳に戻る観客たちの声と、はっきりと視認された「一本」を示す主審の腕。 仰向けでその腕を見上げる元・“女王”の眼前に、新たな“女王”の手が差し出される。
「いいえ、何よりもこのわたくしの、圧倒的な才能の前では、ね」
スポーツマンシップに溢れた行為と見えたのだろう、会場から拍手が沸き起こる。 だが、その実は勝者の敗者に対するプライドの蹂躙。 それを知る敗者は屈辱に顔をしかめて目を背け──なのに、彼女は差し出された手を自ら取った。
あまりに圧倒的なパワーそして才能の差を、超一流たるその肌で感じ取ってしまったが故に。
相手を正視できないまま引き起こされる彼女の耳にその時、新・“女王”からの最後の言葉が届いた。
「──本当に、つまらないですわね」
ぎょっとした表情が左右から向けられたことには気付いたが、発言者の女性は優雅に足を組んだ姿勢を崩すことなく、正面を見つめた視線も動かさずに、ただ座っていた。
呟きと称するには大きな、そして今始まったばかりの記者会見の主役としてはいささか問題ある発言ではあったが、どうやらこの会場、一流ホテルの大ホールに居並ぶ記者たちの耳には入らなかったようだ。
日本最大の女子プロレス団体・新日本女子が口説き落とした、超大物新人の入団発表会。 この場に集まった記者たちは皆、主役たる彼女の経歴を紹介するスクリーンと、その説明を行なう司会者の声に注意を向けていた。
『……と、このように弱冠十七歳にして全日本女子柔道選手権無差別級で堂々の優勝を果たした市ヶ谷選手は、ご存知の通り日本有数の財閥である市ヶ谷財閥のご令嬢でもあり……』
マイクで増幅された淡々とした音声を聞き流しながら、ただ今ご紹介にあずかっている今日の主役、市ヶ谷麗華は、日本人離れした美貌を飾る長い金髪を、赤いドレスの右手でわざとらしくかき上げた。
また何か言うのでは、と左右に座る初老男たちが緊張と不安の視線を向けるが、胸をそびやかせた市ヶ谷がちらりと彼らに目をやると、どちらも目を逸らして正面を向いてしまった。
今度は口にこそ出さないがやはり、つまらないですわね、と市ヶ谷は思う。
どちらがどちらか市ヶ谷はいちいち覚えていないが、左右の男は新女──新日本女子の通称だ──の社長と副社長のはずだ。 それがどちらも娘どころか孫でもおかしくないような少女相手に全く頭が上がっていない。
むろん市ヶ谷も、それが彼女自身の力量や実績ゆえではなく、市ヶ谷財閥といういわば親の七光りゆえということは承知している。 だが、望む望まざるに関わらず、生まれも肩書きも財力も彼女の一部には違いない。 理由が何であれ、彼女に対して立ち塞がることができずに目を逸らして道を譲り、意識の上でも従属してしまう──それがこれまで彼女が出会った全ての人間が例外なく辿った、あるいは彼女に辿らされた道だった。
(そう。 世界最強の称号を持っていた貴女も、結局はそんな一人でしたわね……)
先ほど不意に思い出された柔道の世界王者。 市ヶ谷はその姿を再度脳裏に呼び戻したが、名前を思い出せないことに気が付くと、軽く頭を振って全てを記憶から追い出した。
所詮、その他大勢と同じ道を辿った相手だ。 彼女にとって興味を持ち続けられる対象ではないということだろう。
(……あの方たちは、もう少し歯ごたえがあると良いのですけれど)
会見場に流れる音声は、市ヶ谷獲得までの経緯を説明する社長の声に変わっていた。 しかし当の市ヶ谷はそんなものはそっちのけで、左の壁際に並べられた関係者用のパイプ椅子に顔を振り向けた。
それに気づいた二対の視線が正面から市ヶ谷の目線と絡み合い、手前の椅子に座った長髪の女性は会見中のよそ見をたしなめるように知的な顔の目を細め、奥の比較的短髪で太い眉をした女性は、わんぱく小僧に理解を示す教師のように好意的な微笑みを見せた。
パンサー理沙子と、ブレード上原。
団体最強の座こそエースのドラゴン藤子に譲るものの、そのすぐ後を追う“新女の双璧”がこの二人であり、実のところ市ヶ谷が最終的にプロレス転向と新女への入団を決めたのも、二人の試合を見たことが決定的要因と言ってもよい。
すなわち、今の自分よりも間違いなく強い二人の存在と、その二人よりもさらに強い選手たちがいる女子プロレスという世界を知ったことが。
(ですが……きっとまた、楽しめるのもわずかな間だけなのでしょうね)
柔道の時も、そうだった。
彼女の知らない世界があり、彼女よりも上の存在がいる。 それは確かだ。
しかし、彼女が追いつき追い越せなかった存在が皆無であったことも、また確かだった。
ましてや彼女に追いつくことができ、さらには彼女を追い越していくことができる存在など、この世に存在するはずもない──何よりもその諦めにも似た想いが、市ヶ谷麗華という天から二物も三物も百物も与えられた少女に「つまらなさ」を感じさせているのだった。
(まあ、それはそれでよろしいですわ。 せいぜいそのわずかな時間を楽しませていただくとしましょうか……)
「はい、もちろん我が社としては、将来のチャンピオン候補として……あ? お、おいおい、市ヶ谷君!?」
「初めまして、ですわね。 プロレスマスコミの皆さん」
突然立ち上がってマイクを、それも目の前の長机に置かれた自分用のものでなくわざわざ質問に答えている社長のマイクを奪い取って、市ヶ谷はその美声を会場中に披露した。
たちまち焚かれるフラッシュの嵐に満足気な笑みを見せつけて、
「わたくしが世界で最も強く、かつ美しい、女子柔道史上最も華麗な王者、市ヶ谷麗華でしてよ。 このわたくしが遠からず女子プロレス史上最も強く、美しく、華麗なる王者になるにあたって、本日この場はまことに記念すべき第一歩。 さ、何なりとご質問なさってよろしいですわ」
と、傲岸不遜さでは既に女子プロレス史上最高間違い無しの態度で、満場の記者席を見下ろした。
段取り無視の質問タイム開始だったが、そこは海千山千のプロレス記者たちだ。 たちまちいくつも手が挙がり、転向の動機や今後の展望など定番の質問をぶつけていく。
市ヶ谷はその全てに、例えば、
「オーッホッホッホ! 柔道とレスリングの違い? このわたくしに対して何という愚問! 愚問! そんなものに戸惑うなどは小物のすること。 わたくしはその辺でセコセコ努力してる二流三流の選手たちとは住む世界どころか存在そのものの格が違いますのよ!」
と、おそらくは皆の期待通りかそれ以上の自信満々大胆不敵な回答──計算やキャラ作りなどではなく完全に本音であるのがこのお嬢様の恐ろしいところだ──を返して、会場から苦笑や絶句や呆然、そして「いや、この娘ならやってのけるかもしれない」という期待を引き出していった。
「あの。 リングネームなどはもう決まってるんでしょうか?」
「リングネーム? ……そうですわね。 このわたくしの気高さと美しさを表現するに十分なリングネーム……ビューティフルな……そう、『ビューティ市ヶ谷』とお呼びいただこうかしら? その名のとおりビューティフルでワンダフルでパワフリャーなレスリングで他の選手たちを全員蹴散らして、この世界でもあっさりと頂点に立ってさしあげますわ。 オーッホッホッホ!!」
本日何度目かの、そして最大音量となる甲高い高笑いがホール中に響き渡った時、
「なーにがビューティ市ヶ谷よ、このお調子者! 全員蹴散らすって? あっさり頂点に立つだぁ? アンタあったまおかしいんじゃないの!?」
きりりと締まった少女の声が鋭く飛んで、市ヶ谷の高笑いを霧散させた。
突然の割り込みに、記者たちはもちろん新女の関係者たちも面食らった顔で、声の出どころ、ホールの後方を振り返った。
会場準備の手伝いにかり出されたのだろう、新女のジャージを着た若手選手が二人。 そのうち長い髪をした少女が、大柄な少女の制止を振り切ってずかずかと怒りの表情で記者席の間を突っ切ってくる。
「財閥令嬢? 柔道王者? なんだか知らないけど、プロレスじゃそんな肩書き何の意味もないってこと、このあたしが教えて上げるわよ!」
「……ホッホッホ。なんと身のほど知らずな方なのかしら」
あまりの事態に固まってしまった新女のスタッフと、ハプニングか演出かの判断がつかず成り行きを見守る記者たちが生み出す沈黙の中で、市ヶ谷はマイクを握りなおした。 長机を挟んで自分を力いっぱい睨みつけてくる少女に対して、
「貴女、誰に向かってものを言ってると思ってらっしゃるの? まあ、わたくしのようなエリートとご自分のような二束三文の人間の違いが理解できない、その時点で貴女は三流以下……」
「あたしの目の前にいるのは単なる大口叩きの成金ワガママ女ね!」
一刀両断の断言に、さしもの市ヶ谷も言葉を失った。 脳裏にぐるぐると疑問と不快の想いが渦巻く。
(な、なんですの? なんなんですの!? この無礼なズン銅田舎娘は、何者ですの!?)
言葉にならない市ヶ谷の問いに答えるように、ようやく我に返った隣の社長やスタッフが次々に目の前の少女の名前らしき単語を口に出す。 それを耳にした市ヶ谷は、
「そう、祐希子さん……とおっしゃるのかしら? 見ればさしずめ練習生か新人選手のようですけれど、これはこれはお可哀想に。 貴女の短いレスラー生命も、今日でおしまいになりますものねえ」
むしろ親愛の情を感じさせる声音に、何を感じたのか。 祐希子と呼ばれた少女は一歩下がって軽く腰を落とした。
「人間の、格の、存在の、次元の違いというものを。 そう、貴女のような低脳ズン胴ド田舎娘にも理解できるように……このビューティ市ヶ谷が自ら、身体で分からせて差し上げますわ!!」
市ヶ谷は、翔んだ。
長机を蹴って襲いかかった派手さ極まりない魔鳥を、迎撃体制を取っていた祐希子は後ろに跳んでかろうじて回避した。
二人の着地はほぼ同時。 そのまま同時に床を蹴って、今度は真正面から激突する。
「その礼儀知らずの口、このわたくしが塞いであげましょう! 有難く思いなさい!!」
「上等じゃない! マスコミの前でアンタの化けの皮剥がしまくってやるわよ!!」
かくして始まる大乱闘。
決して記者会見の演出などではないガチバトルは、止めようとしたパンサー理沙子を面白がったブレード上原がまあまあと押しとどめたこともあって、記者たちの怪我人ゼロが不思議だったぐらいの盛り上がりを見せ、各メディアにもれなく明日の一面の話題を提供してしまったのである。
(な、な、な、なんですの? なんなんですの!? あの祐希子とかいうズン胴ド田舎娘は、一体全体なんなんですの!?)
息も荒く頬も上気、興奮おさまらぬ様子の市ヶ谷は、会場となったホテルの廊下を一人大股で歩いていた。
数分にわたる激闘は、決着のつかないままスタッフや警備員に十人がかりで引き剥がされて、結局痛み分けで終わった。 うやむやのうちに会見も終了。 華麗なるビューティ市ヶ谷伝説の第一歩として歴史に記されるはずの舞台は、祐希子の登場で台無しにされたといっても過言では無かった。
(この偉大なるわたくしの顔に泥を塗るなどとは、何たる非常識! あんな身の程知らずで生意気な無礼者、生まれて初めてですわ!)
しかも、倒せなかった。
容易く一蹴できるはず、そう思った相手に打たれ蹴られた身体のあちこちの痛みが、彼女の顔をしかめさせ、足を止めさせた。
「全く理解できませんわよ、あの小娘は!!」
激しい叫びとともに、激しい音が辺りを震わせた。 放った右拳の小指側を壁に当てたまま、市ヶ谷は荒さを増した息と興奮した身体の震えを整えようと何度も何度も深呼吸をした。
(本当に……なんなんですの、あの娘は……!? それに、それにこの……)
何とか収まった呼吸と震え。
しかし、いまだ収まってくれないただ一つの箇所に、市ヶ谷はそっと左の手のひらを当てた。
(この胸の、ときめきは、一体……?)
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