「……買いかぶりすぎじゃ、ないんですか?」
少女──菊池理宇は、持ち前の明るさより戸惑いの方がより多く含まれた声とともに、目の前に置かれた名刺を取り上げた。
ANGE女子プロレス……女子プロレスに詳しい菊池も知らない名前だが、それもそのはず。理宇の地元でもあるここ宮城県を本拠に旗揚げを目指す新団体だと言うのだ。
「社長さん自ら来ていただいたっていうのは、何ていうか、光栄なんですけど……」
春の陽射しが暖かさを運ぶ喫茶店のテーブルに名刺を戻し、少し相手の方へと差し戻す。その手がオレンジジュースのグラスに当たり、氷が微かな音を立てた。
「ご存知なんですよね? 私、新女の入団テスト、二回も落ちてるんですよ?」
一度目の不合格をバネに精一杯のトレーニングを積み、今度こそと臨んだ今年の新日本女子プロレス入団テスト。その場で言い渡された再びの不合格に人目もはばからず大泣きしたあの日から、まだ一月と経ってはいない。
「そんな私なんかを、地元だからって一番にスカウトなんて……信用できないっていうか」
視線を落とした理宇に対し、目の前に座ったスーツ姿の男は静かに、しかし熱意ある説得を続けた。実績あるレスラーの招聘も重要だが、それ以上に有望な新人を得られる機会は大切で、かつ限られている。新女でのテスト結果を知っていても、いや、その詳細を知ったからこそ惜しい人材だと感じている。才能の有無よりもその差をカバーできるだけの努力を知っているところに惹かれた……数々の言葉は確かに理宇の心を揺さぶった。
「で、でも……」
自信が持てない。そう告げようとした理宇の言葉は、男が最後に付け加えた一言で喉の奥に飲み込まれた。
──君自身は、プロになることを諦められるのかい?
理宇の脳裏に、一人のレスラーの後ろ姿が浮かんだ。
かつて一度だけ見た新女の興行で、場外乱闘に巻き込まれそうになった理宇を身を挺してかばってくれた新人選手。
その選手がめきめきと頭角を現して女子プロレス雑誌やテレビで見かけるようになってからも、理宇の心には自分をかばったあの時の後ろ姿が焼きついていた。
あの人みたいになりたい。その一心が、理宇に決して向いているとは思っていないプロレスラーへの道を決意させたのだ。
そして今も、夢を断たれたと思っていた今でも、その気持ちとその姿だけは、消えずに残っていた。
「……やっぱり、私……」
うつむいた理宇の呟きに男が再度の説得を試みようと身を乗り出した時、理宇は勢いよく顔を上げて、笑顔を見せた。
「やっぱり、私、やります! お願いします!」
大きすぎるほどの声に周りの客の目を集めつつ、先ほどまでとは別人のような元気さに戸惑う男を、理宇は真っ直ぐに見つめて宣言した。
「やらせてください! やっぱり、私……プロになりたいんです!」
──いつか見た、あの背中に追いつくために。
理宇には、知る由もなかった。
新女の入団テスト。成績は人並みでもひたむきな努力を見せていた彼女に目を留めた選手がいたことを。
選考会議でも理宇を最後まで推してくれていたことを。
その人が、不合格に大泣きしていた彼女の惜しさを週刊レッスルの記者に語ったことを。
そして、その記者からの紹介で新団体の社長が理宇を誘う気になったことを。
今の彼女には、まだ知る由もなかった。
|