「今、私が何に一番驚いているか。 わかるかしら、社長さん」
一流ホテルのテラスラウンジ。
こちらの用件を伝え終え、質問を促したたところで相手が発した問いは、彼女──ミスト女子プロレス社長・井上霧子にとって、予想外のものだった。
それでも彼女は、柔和な笑顔を相手に向けたままで、即座に答えを返す。
「社長が私──女性だったということかしら?」
「それも驚いたけど、一番ではないわ」
こちらも即答を返した相手は、そこで一息つくと、話の間に運ばれてきていたアイスティのストローに口をつけた。
わずかな液体が白い空洞を通り過ぎると、女性は唇を離して、あらためて霧子に向き直った。
「フリーのベテラン選手。
どころか、あと一年での引退を発表したばかりの私と、短期契約ではなく長期雇用契約を結びたいと言う──あなたの申し出そのものによ、井上社長」
そう告げた女性の名は、南利美。
国内最強団体・新日本女子でデビューし、JWIやWOLFなどでも活躍。
長年の間、『国内最高の関節技使い』の名をほしいままにしてきた『関節のヴィーナス』、その人であった。
「……昨年は、市ヶ谷さんと龍子さんが突然の引退。 そして、あなたも引退を表明」 *d1
唐突に出された二人の名前に南は微かに眉を寄せたが、霧子は言葉を続ける。
「数年前に世界を驚かせた黄金世代もその役目を終えたのか、なんて声も聞こえてくるけど──」
「二人と私の引退は、関係ないわ」
南の割り込みは、薔薇の棘にも似た鋭さを伴なっていた。
「私は私の道を行くだけ。 その道をリングに求めるのはあと一年、そう決めただけよ」
「その道に、後進の指導や育成、といった言葉を乗せる気はなくて?」
再び、南は眉を寄せた。
「私に……コーチになってほしいと言っているの?」
「それも一つの形でしょうね」
霧子はテーブル上で腕を組んだ。 わずかに身を乗り出す。
「引退後に、あるいは選手兼任でコーチ。 それを期待しないわけでもないわ。
ただね、私は選手としての南さんが好きなのよ。 今もなお国内有数のレスラーであり続けるあなただからこそ、若い人たちに教えられるものがあると期待しているの。
紛れもない国内最高のプロフェッショナル──あなたをそう評価しているから」
「……『世界最高』でも『プロレスラー』でもないところは、残念ね」
南の微笑みは、皮肉にも自嘲にも見えた。
「言っておくわよ、社長さん。
私は私がその時だと感じたり、あなたの団体や選手たちに失望したら、すぐにでも辞めさせてもらうから。 それに──」
南は一旦言葉を切った。
微笑んだ表情のまま、その表情の意味だけが変わる。
皮肉や自嘲から──自信と野心を隠さない、女豹の顔に。
「私は、若手だろうが後輩だろうが遠慮も容赦もしないわよ。
メインイベンター、団体トップ、タイトルへの挑戦、そしてベルト。
引退するその時まで、私がリングに上っている限り、誰にも譲る気はないわ。
それでもいいのかしら、社長さん?」
「霧子よ」
満足の笑みをたたえた霧子が、右手を差し出す。
その手を、南はしっかりと握り返した。 *d2
「……南利美さんって、あの南さんですよね! 光栄です!」
ミスト女子プロレスのトレーニングジムで、自己紹介した南の姿に瞳を輝かせたのは、団体にスカウトされたばかりの新人選手。
デビュー後は、サイクロン近藤、というリングネームを名乗ることになる、近藤真琴という少女だった。 *d3
「プロレスはあまり詳しくないですけど、南さんのことは知ってました!
一緒にやれるなんて嬉しいです。 これからいろいろ教えてください!」
「嬉しいだなんて、こちらこそ光栄ね。
でも、練習でも試合でも手加減はしないから。 気をつけてね」
「はい! よろしくお願いします!」
南が差し出した手を、喜色いっぱいの一途さで握った近藤。
いかにも一本気な少女を好ましげに見つめる南の笑顔が、その時ふいに曇った。
「近藤、だったわね。 おかしなことを聞くようだけど……」
「はい。 なんでしょうか?」
急に声を落としてジム内を見回した南を見て、近藤も辺りに首を巡らせた。
今の時間はコーチもおらず、同じ新人の早瀬は掛け持ちのバイトで不在。
このジムには南と自分の二人しかいなかった。
「あなた、社長の霧子さん直々にスカウトされたのよね。
その時やその後に、あの人に何か……その……感じなかった?」
「感じ……ですか? 特に何も……。
あ、綺麗だとかきびきびしてるなとか優しそうだなとか、そういうのは感じました」
「ええ。 私もそれはそうなんだけど……」
南は歯切れも悪く、近藤と握手したばかりの自分の右手を見つめていた。
「さっき霧子さんと握手した時、一瞬だけなんかこう、背筋がぞくっとしたの。
ねっとりした何かを感じて……なんていうのか、舌なめずりとでもいうのかしらね。
もちろん、霧子さんが実際にしたわけじゃないわよ。 ただ、そんなイメージがね」
「イメージ、ですか……?」
近藤も何となく自分の右手を見てしまいながら、何度か会っている霧子のことを思い返した。
いきなりスカウトに現れ、いろいろ説明や相談もしてくれ、握手をしたり肩を叩かれたりもしたが、南の言うような感覚は感じたことがなかった。
やっていたキックボクシングでは壁に当たり、プロレスへの自信も無かった近藤に、
『あなたはまだ未熟。 硬くて青い果実ね。
もう少し成長すれば、きっと私好みのいい選手になれるわ。
素材は凄く良いものを持ってるんですもの』
と期待をかけてくれたこともあって、感じているのは感謝と信頼ぐらいなものだった。
「……本当におかしなことを聞いたわ。 忘れて」
近藤の戸惑いを察したのか、南は軽い笑みとともに首を横に振った。
「きっとあの人の熱意とやり手ぶりが、私にそんな感覚を抱かせたのね。
旗揚げを成功させるため、今も駆け回ってる霧子さんに、失礼だったわ。
彼女のためにも、私たち選手がしっかりやっていかないとね」
「ええ! 私たちで霧子さんを男に……じゃなくて、女にしてあげましょう!」
もし、この場に早瀬がいたら、いろいろと思う所やツッコミ所もあったかもしれない。
しかし、そんなもしもの話を知るはずもなく、近藤と南は笑顔を交わし合った。
4月末の、名古屋近郊。
季節は桃の花の盛りだった。
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