ついに終結の時を迎えた、第二回エンジェルウィング・チャンピオン・カーニバル。 *b1
タッグ優勝は、武藤めぐみと、結城千種。
シングル優勝は、桜井千里。
全ての試合を終えたばかりの大会。 シングル決勝の興奮冷めやらぬリングの上で、今日は敗者となってしまったマイティ祐希子は、自らを破った桜井千里のもとへと歩み寄った。
「祐希子さん……」
「あーあ。 負けちゃった。 さすがだね、桜井ちゃん。
出会った時の借り、とうとう返されちゃったかな」
笑顔で肩をすくめる祐希子に、千里は真剣な眼差しで首を振った。
「たまたまですよ。 たまたま、です」 *c1
「こらこら。
たまたまで今日のあたしに勝たれちゃ、たまんないわよ。 まったく。
……おめでと、桜井ちゃん。
あんたがこの大会の優勝者──世界一のレスラーだよ!」
会場を満たす歓声が、拍手に塗り替えられた。
勝者の腕を高々と持ち上げ讃えた祐希子と、彼女の讃える千里に向けた拍手に。
「……でもまあ、それはそれとして」
意味ありげな呟きに、千里は傍らの祐希子を見た。
こちらを見た顔の中では、片目がイタズラっぽく閉じられていた。
「金メダルは、金メダル。 ベルトは、ベルト。
実力世界最高位・NA世界無差別級のベルトは、まだあたしのものだしねー。
今度はタイトルマッチで、桜井ちゃんにしっかりリベンジさせてもらうわよ。
いい? わかった?」 *c2
「……はい。 お手柔らかに……」
祐希子の瞳。 千里を見つめ、その表情を映した両目が、見開かれた。
我知らず、その唇から呟きが漏れる。
「桜井ちゃん……? 今、笑っ──」
「オーホッホッホ! 楽しかったお祭りも、とうとうフィナーレ!!
お疲れさまでしたわね、皆さん!!」
リングの上のみならず会場の全員が、思わずつんのめりそうになった高笑い。
そこから始まる大声が、世界中に響き渡った。
カメラを含む全ての目が、いつの間にかリングに上がっていた一人の女性の身に注がれる。
その全てを代表するかのように、祐希子が苦味いっぱいの溜め息にその名を乗せた。
「い、市ヶ谷……」 *c3
「優勝者をはじめ、上位に入った皆さまには、おめでとう。
心からの祝辞を述べさせていただきますわ。
けれど、しかし! お祭りはお祭り、束の間の夢にすぎませんのよ!
こんな一発勝負の大会で運良く勝ち抜いたからといって、世界の頂点だとか勘違いしてもらっては困りますわ!
大切なのは今までの、そしてこれからの戦いぶり!
チャンピオンベルトに代表される、日々の試合における実績こそ重要なのですから!」
「……な、なんか、大会前と反対のこと言ってるわねぇ」
「まったくだ。 あいつらしいけどね」
背後からの軽い相槌に振り返った祐希子の眼前に、人差し指がびしりと突き出された。
その先に見えるのは、サンダー龍子の精悍な笑みだ。
「市ヶ谷の奴ほど恥知らずになる気はないけどさ。
やっぱりベルトはベルトで大事だよな、祐希子。
NA王座は準決勝の借りと引き換えに私が奪ってみせるから、しっかりと覚悟しておくんだね!」
「……あのー。 龍子」
「ん? なんだよ、変な声出して」
「あんたさ、最後だとか何だとか、なんかいかにもって感じのこと、言ってなかったっけ?」
「最後? 私が引退するってかい? バカ言ってんじゃないよ」 *c4
龍子の笑みが、深くなった。 苦笑したように見えなくもない。
「あんたに勝てるまで、プロレス辞めるわけないだろ?
私はしつこいんだ。 嫌ならさっさと負けて、ついでにベルトもよこすんだね!」
「…その前に、私と戦ってもらうわよ、龍子…」
今度は、龍子が慌てて振り向く番だった。
いつの間にか龍子のすぐ後ろに立っていた森嶋亜里沙が、無表情に龍子を見つめていた。
「…前回と今回、私はどちらの大会でも、あなたに負けた。
私の海賊の掟では、大舞台で二回負けた相手には、同じくらいの舞台で、三回勝たないといけないのよ…」 *c5
「な、なんだよそれっ。 本当かいっ?」
「…さあ。 とにかく、それまで引退なんて許さないから…」
──といったやり取りが、リング上で行なわれている中。
リングサイドでは、先輩二人の激闘を見届けたタッグ優勝者、結城千種が、パートナーの武藤めぐみに笑いかけていた。
「あはは。 みんな、せっかちだよねー、めぐみ。
大会終わってすぐ、もう次の闘いのこと考えてるんだから」
「そうね」 *c6
と返しためぐみが、千種に差し出したのは、一枚のプリント用紙だった。
はてなマークを浮かべた千種がそれを開くと、頭上のマークは突如、びっくりマークに変わった。
「め、めぐみ! こ、これって!?」
印刷されていたのは、翌月以降の団体興行カード予定。
めぐみの持つ NJWP王座に千種が挑戦し、千種の持つ EWA王座にめぐみが挑戦する、ファン待望のカードが記載されていた。
「私の提案。 社長から、オッケーもらってきたから」
しれっと言った親友に、千種が思わず抗議の声を上げようとした時、
「そこのお二人、NAタッグ王者についても、同じでしてよ!!」
どこかで聞いたようなセリフが、めぐみと千種の目を、リング上の市ヶ谷へと向けさせた。
「この私、ビューティ市ヶ谷が、大会の主催者として決定いたしましたの。
この大会の金メダルと NAのベルトは、今後はセットにすべきなのだと!
所持者が異なるシングルは後回しとして、タッグはもうそれで確定ですわよ!
私と千里さんがまとめて奪って差し上げますから覚悟なさることね! オーッホッホッホ!」
「ちょっ、市ヶ谷さんっ! 何を勝手に決めてるんですかぁ!?」
「……まったくね。 どうせ私たちが勝つけど、だからって……!」
温度差はあれど、口々に当然の不満を表明する NAタッグ王者の二人。
その二人と市ヶ谷のやり取りを、千里と祐希子はコーナーに引き下がって傍観していたが、
「おいおい、二人とも。 いいのかよ、あんなこと言わせといて?」
エプロンに登ってきたボンバー来島に、二人して肩をつんつんとつつかれた。
「市ヶ谷の勝手はいつものことだけどよ。
お前らの金メダルと NAシングルのベルトも対象に入ってるんだぜ?」
「まあ……いいんじゃないでしょうか」
「おいおいっ。 いいのかよ、千里!?」
「んー、そうね。 大丈夫だってば、恵理。
シングルは後回しって言ってるし、市ヶ谷のことだから、どうせすぐ気が変わるわよ。
それに、タッグをそういう条件にしといてくれれば、あたしと恵理が NAタッグ獲ったらメダルまでもらえるわけだし。 ここは黙っておこっかなって♪」
「私も、市ヶ谷さんとはタッグですからね」
「…………。 お前らも、けっこう勝手なのな……」 *c7
一方。 リングから少し離れた関係者専用席の一角では──
「けっ! やってられねーってんだよ、ったくよぉ!」
床に敷かれたブルーシートに、叩きつけるような勢いで紙コップが置かれた。
すでに半分になっていた中の液体を、さらに五分の一ほど床に散らせたのは、床にあぐらをかいたライラ神威だった。
「シングルもタッグも、結局なんだかんだで WRERAの人気どころだけが目立つような展開になっちまって。 私らは、すっかり脇役扱いじゃねーか!
そもそも、あの組み合わせは何だ、ってな話でよぉ。
最初の抽選から、全部仕組まれてたんじゃないのかぁ? *c8
な、千春先輩もそう思わねぇか!? なぁ!?」
と、明らかに赤い顔でクダを巻いたライラが、そばの一升瓶──純米吟醸と書いてある──を手にとって、目の前の「千春先輩」に突き出した。
「おいおい。 私は千秋だっ。
WRERAだが、どうやら『人気どころ』じゃないらしい、村上千秋だよ。
……って、自分で言ってて腹立ってきたな。 貸せ、ライラ。
ほら、同じく『人気どころ』じゃない越後先輩、一杯どーぞっ」
「そ、その話の持って行き方はなんだ、千秋!
私と堀先輩のタッグを一回戦で破っておいて、何て口の……っ。
……まあいい。 飲んでやる。 コップは要らん、瓶ごとだっ!
タッグはともかく、シングルでの組み合わせと予選落ちには、私も納得いかないものを感じているからなっ!」 *c9
珍しくもヤケ酒をあおり始めた越後に、千秋やライラから無責任な拍手が飛ぶ。
パイプ椅子が綺麗に片付けられ、ぽっかりとスペースが開けられた一角は、完全に公園のお花見か何かを思わせる、宴会場と化していた。
「あらあら、困ったものですわね。 まあ、飲みたくなる気持ちもわかりますが……」
薄っすらと紅い頬から、悩ましげな息を吐き出したのは、フレイア鏡だった。
右手には、イメージぴったりの赤ワインかショートカクテル──と思いきや、長崎産の焼酎が、こちらも瓶ごと握られている。
「私も、タッグでは、一回戦から桜井さんと市ヶ谷さんの組と対戦する不幸。 そうですわね、パートナーの千春さん?
シングルでは、桜崎さんとの一回戦こそ制したものの、次は千春さんを倒した祐希子さんが相手。 そうでしたわね、千春さん?
その祐希子さんとの試合は、もう少しで逆転勝利というところで、残念ながら敗退。 残念でしたわよね、千春さん?
ただ、負けは仕方ないこととしても、どこかのテレビの前で『やばい、フレイアが勝ってしまうっ!』……などと頭を抱えた人がいることが、許せませんわ。 *c10
あなたもそう思いますわよね、千春さん?」
「…………ひっく」
隣に座る鏡が「千春さん?」と言うたびにお酒をつがれ、飲まないと許されない──鏡の瞳に睨まれると、なぜだか逆らえない──状況で、さすがの千春も酔ってフラフラだった。
タッグは自分もおんなじだ、とか、マイティ祐希子と一回戦で当たった自分の方が不幸だ、とか、富沢の奴が変に頑張るからグループリーグ一位抜けをのがしたんだよ、とか、千春にも言いたいことは山ほどあったが、とかくそれどころではなかった。 *c11
そんな千春への助け舟、というわけでもないだろうが、
「ひどいじゃないですか、鏡お嬢様ぁっ!」
いきなり背中から抱きついてきたメイド姿に、鏡も珍しく慌てた顔を見せた。
「あ、あら。 桜崎さん。 目が、据わってらっしゃるわね……?」
「オホホホ。 そんなことはありませんわ、お嬢様。
この桜崎、いついかなる時でも、ご奉仕精神を忘れてはおりません。
ですが、それはリングで負けてもいいという意味ではありませんわ!
それなのに、タッグもシングルもまさかの一回戦敗退っ。
それもシングルは鏡お嬢様に行く手を阻まれて……
桜崎は、桜崎は、悲しうございますわ、お嬢様ぁぁっ!」
支離滅裂な発言の末に、桜崎は鏡にしがみついて泣き出した。
泣き上戸らしい……と鏡が思ったところで、その首筋にするりと腕が巻かれた。
「くすくすくすくす……一回戦の恨み♪ ブッコロしてさしあげるわよ、お嬢様っ!!」
「さ、桜崎さん!?」
スレイヤーの誇る関節技の達人による、いきなりのくんずほぐれつ場外乱闘。
写真集の売上でも「達人」級な二人の絡みだけに、録画しておけば高く売れること間違いなしの情景ではあったが、
「うー。 うらやましいっスよぉ、鏡先輩ぃ……」 *c12
と、指をくわえて二人を見つめる真田に、そんな発想はカケラも無い。
そんな真田の肩を、後ろから軽くポンポンと叩く人物が、約一名。
「ん?」
振り返った真田の目の前に居たのは、富沢レイだった。
「あのー。 すみませーん。 私も、ここに入って、いいですよねー?」
「ダメっス」
「え゛っ? いや、あの、でも。
私もほら、組み合わせに恵まれなかったじゃないですか?
組み合わせ次第では、もうちょっと目立てたかなーって。 だから……」
「ダメっス。
あんたの場合は、組み合わせとか、そーゆー問題じゃないっスから!」 *c13
同じ頃。 同じく関係者専用席の、別の一角では──
「とゆーわけなのです!
私たちには輝く未来が待ってるのですよ!」
だんっ、とパイプ椅子に片足を乗せ、ウィッチ美沙が両手に拳を握った。
一人だけ立った美沙の目の前では、六名の選手が腰をかけていた。
それぞれが思い思いの態度で、美沙の「講義」に耳を傾けている。
「今回の大会は、やはりというかベテラン勢が中心だったのです。
美沙たち若手は、あんまり結果を残せなかったのですが……」
「え〜? 美沙ちゃん、美沙ちゃん。
私は、そんなでもなかったんじゃないかなぁ。
何といっても、タッグは銅メダル! ドウメダル!」
「じろりっ」
「う゛っ……なんか怖い、コワイ……」 *c14
先輩の永沢による無邪気な割り込みを、自分で擬音を付けたひと睨みで引き下がらせると、美沙は咳払いをしてから話を続けた。
「コホン。 とにかくなのです。 大会前から世代交代とか叫ばれてたのですが、フタを開ければ、まだまだ年増先輩たちが元気だったのです。
大会でも活躍しまくられちゃって、美沙たちの世代交代は志半ばだったのですよ」
「おいおい、年増って……。
いくらなんでも、先輩たちに失礼だろ、天神。
それに実は、年だけなら私も結構上の方だしよ……」
「私もそうですよ、小鳥遊さん。
第一、永沢さんもそうですが、タッグ金メダルのめぐみさんや千種さんも『新世代』なわけですし……」 *c15
「じろりっ」
小鳥遊と佐久間。 先輩二人の物言いを、これも美沙は擬音付きの睨みで押さえつけた。
隣り合った小鳥遊と佐久間は顔を見合わせ、どちらからともなく、肩をすくめた。
その光景を佐久間の隣から見ていた小縞が、反対側の席に耳打ちをした。
「あのー。 中森さん」
「……なんです?」
「あの人、美沙さんって、未成年ですよね?」
「……ええ」
「なんかもう、明らかに酔っ払っちゃってるんですけど。
誰が、お酒を飲ませちゃったんですか?」
「さ、さあ。 私が気が付いた時にはもう……」
「それなら、真帆だぞっ」 *c16
小縞と中森が目を向けたのは、中森のさらに隣の席。
新しいメロンパンに歯形をつけたばかりの、中村真帆だった。
「あそこに一杯置かれてるビンが何かって聞いたら、みんな『子供が飲むものじゃない』って言うんだぞ。
で、美沙に『美沙は子供か?』って聞いてみたら、違うって言ったから、真帆が美沙のために持ってきてあげたんだ。 エラいだろー?」
無邪気などころか、誇らしげな声。
小縞と中森も顔を見合わせ、先ほどの先輩二人に続けとばかりに、肩をすくめた。
そんな様子も知らぬ気に、
「ひっく。 うぃー。 なのです。
とにかく、次の大会こそは美沙の、いえ、私たちの時代なのです!
みんなみんな、次をみてやがれなのですよ! えいえいおーなのです!!」
と、一人で拳を天に突き上げ、力説した美沙であった。
そして、そんな彼女たちの様子を遠巻きに見ながら、
「あはは。 スレイヤーの後輩さんたちって、個性的だよね。
小鳩ちゃんも、苦労してるんじゃないのかにゃ?」
「うふ。 そうでもないわ。
みんな楽しくって、それに扱いやすいのよ。
だから、小鳩は毎日ハッピーなの。 いひ♪」
と、WRERAとスレイヤーのジュニア最強世代、テディキャット堀とメロディ小鳩は、仲良く笑顔を交わしあっていた。 *c17
……などと、リングとその周辺が、賑やかなりし頃。
舞台の裏、華やかなライトの当たらない会場の隅では──
「うんうん。 大会も大成功っ。
ウチもここまで、裏方として頑張ってきた甲斐があったわ。
ウチはもう、ホントにホントに大満足……なわけあるかい!」
なぜか用意されていたちゃぶ台を思いっきりひっくり返したのは、今大会の運営委員の肩書きを持つ、クラリッジ成瀬。
WRERAでは唯一、この大会に出場できなかった新人選手である。
「ええい! うっさいわ、ナレーション!
運営の成功、黒字間違いなしなんはうれしいけど、ウチはプロレスラーや!
見とれよ〜。 次こそは絶対に出場したる!」
決意のガッツポーズ。
わざとらしくも見えるその姿を後ろから眺めつつ、運営委員補佐の肩書きを持つ二人が、ちらりとお互いの顔を見た。
「えっと〜。
私たち、結局……出番が全然なかったですね〜」
「ええ……」
スレイヤー所属の新人・フェアリー保科とコンバット斉藤。
二人は苦笑の中にも、成瀬と同じ決意をたたえて、頷きあうのであった。 *c18
「……というわけで、シングルは八強に二人。
タッグも銅メダルと言えば聞こえは良いですが、四強止まり。
選手たちには、もう少し奮起してほしかったところですね、社長」
会場に設けられた、VIPルームの一つ。
森嶋や永沢らを大会に送り込んだスレイヤー・レスリングの社長は、女性秘書の井上から大会結果の報告を受けていた。
「この結果、団体への分配金も、雀の涙程度。
手間ばかりかかって、我々には得の無い、無益な大会でしたわね」
「そうでもないだろう」
社長が即座に否定したことに、井上は驚いた。
端正なその顔立ちについた疑問符を少し楽しげに眺めて、社長は言葉を続けた。
「世界的不況に、新日本女子の崩壊。 この業界は、間違いなく危機にあった。
WRERAと我々は好調だったが、それだけではいずれマンネリズムがはびこり、立ち行かなくなってしまう。 この大会は、それを救ってくれたと言えないかね?」
「……まあ、それは確かですね。
世界的に、プロレス人気が再燃、あるいは発生した、という声もあります。
ですが、それでもやはり、我々の団体の利益としては……」
「次回大会の主催」
社長の一言に、井上は書類に落としていた視線を上げた。
壮年の社長の、いたずらっ子のような笑みが、その目に映った。
「今回の大会は、市ヶ谷財閥が相当無理をしたため、それほど大きな利益は出ていまい。
だが、興行としては大成功。 これに今回蓄積できたノウハウを活かせば、多大な利益を産むコンテンツ──それも長期にわたって継続的に──とすることもできる。
それこそ、我々の仕事ではないかね、井上くん?」
「……そうですね」
井上の表情にも笑みが浮かんだ。
「その話に、異論ございません」
計算高い、いつもの彼女の微笑みが。 *c19
「十年、か。 確かに『ひと昔』だな……」
高い位置から会場を見渡せる部屋で、広いガラスの向こうにリングを見下ろして。
WRERAの社長は、感慨深げに小さく息をついた。
その耳に、斜め後ろからの小気味良いくすくすという笑い声が聞こえてきた。
「なんですか、社長。 このおめでたい日に、随分とお疲れのご様子ですね?」
「霧子くん。 ……いや、疲れたというわけじゃないんだ。 ただ、懐かしくなってね」
「懐かしい? 十年前の旗揚げが、ですか?」
「ああ……いや。 十年前だけじゃないよ。 団体の立ち上げから今まで、だな。
あの選手たちみんなや霧子くんと出会い、駆け抜けた……というよりまあ、引っ張っていってもらった、この十年。 その全てが、懐かしいんだよ」
そう呟いた社長に、秘書の霧子は、今度はぷっと噴き出した。
「どうしたんですか。 まるで、今日で社長を引退されるような口ぶりですね。
そんなこと、許しませんよ?」
「はは、そうじゃないよ。 まだまだやりたいことは沢山あるしね。
だけど、そうだな……この仕事は、思っていたよりも楽しかったよ」
「楽しかった? 社長業が、ですか?」
「ああ……いや。 この業界での社長業が、かな。
正直、こんなに楽しいものだとは思っていなくてね」
社長の耳に、今度は、わざとらしいほど特大の、霧子の溜め息が届いた。
「社長。 今さらながら、呆れてしまいました。 まったく、仕方の無い人ですね」
「な……いや、まあ、そうかもしれないが。 ……どの辺りが、かな?」
恐る恐る、といった感じの社長に、霧子は胸を張った。
「当たり前のことを、言うからです。 私なんて、もうずっと前から知ってましたもの」
そう言われても恐縮したままの社長に、霧子は片目をつぶってみせた。
「プロレスって──とっても、楽しいものなんですよ?」 *c20
「オーッホッホッホ! メダルもベルトもやっぱり関係ありませんわ!
世界の頂点はとにかくこの私と、創世紀から決まっていますもの!」
「ゆきこ、ゆきこ、祐希子ぉ! 私と勝負しろっ! 次は絶対に勝つ!」
「…海賊の掟は、絶対よ…」
「ええい、俺は迷ったりしねえ! この筋肉と心中だっ!」
「こ、小鳩ちゃんっ。 なんで、来島ちゃんたちにお酒を渡しちゃったんだにゃん!?」
「あら、だってお祭りの打ち上げだもの。 リングの下はもうとっくにできあがりだし。
だからリングの上も、飲まなきゃ損々、じゃないかしら? いひ♪」
「祐希子さん……」
「ん? なにかな、桜井ちゃん?」
「なにかといえば、この状況なのですが……」
「見るのです! なんかリングにトップクラスの年増先輩が集まってるのですよ!
敵はリングにありなのです! ケルえもん、ポケットから地球破壊爆弾を出すのですよ!」
「ケルえもんって……なぁ、天神。 お前の酔い醒ましに、一発本気で殴っていいか?」
「血だぁ! 血が足りねぇ! 血を持って来い! それが嫌なら酒だ、酒ぇ!」
「はーい、お客様、小縞がただいまお持ちしまーす!
……って、なんで私、こんなとこでもウェイトレスやってるんだろ?」
「ちっ、なんかもうムチャクチャだな。 おーい、千春、そろそろフケるか?」
「こら、千秋! 団体行動で勝手は許さないからな! ここは点呼だ、点呼!」
「ふう。 余計な汗をかいてしまいましたわね。 でも、桜崎さんも意外に……ウフフッ」
「……Zzzzz……八島の姐さぁん……」
「ああもう、なによこれ。 いつの間に、こんな収拾つかないことに……」
「あ、祐希子さ〜ん、助けてくださぁい!」
「あら、めぐみに千種じゃない。
あはは、あんたたちも、この雰囲気に乗り遅れちゃったみたいねぇ。 残念でした」
「いい!? 真田! メイド最強はこの私! 私のメイドは最強なのよ!」
「さ、桜崎先輩! 酔ってる自分をゆすっちゃだめっスって! 正気に戻……ウップっ!」
「ほ〜ら、真帆ちゃん! 銅メダルだよ、ドウメダル!
いくらでもかじっちゃっていいから、今度から私の部屋で一緒に住もうよ〜!」
「だ、抱きつくなー! 十円玉のお化けは食べたくないし、真帆はペットじゃないぞ!
中森まで、どうして真帆を押さえてるんだー!?」
「な、永沢さんがそうしろと。 先輩の命令は、やはり守らないわけにも……っ」
「それで……富沢さんはどうして一人でお酒持って、膝を抱えてるんですか?」
「ほっといてよ、佐久間! ふーんだ、いいもん! いいもんねーだ!
私はギミックレスラーとして世界の頂点に立ってやるんだからっ!」
……などなど。
予定されていた華やかなセレモニーなどそっちのけで、リングの上も、リングの下も、とにかく収拾がつかなくなっている状況。
その中で、今日の主役であるはずの栄えある優勝者──祐希子曰く、『乗り遅れちゃって残念』な三人──桜井千里、武藤めぐみ、結城千種は、互いの顔を見合わせて、一斉に溜め息をついた。
「残念と言われても。 この雰囲気は、ちょっと……」
「ですね、千里さん。 私も千種みたいにお気楽じゃないから、こんなノリは勘弁です」
「あ、めぐみ! またヒドいこと言って! 誰がお気楽なのよ、誰がぁ」
「でもさ……面白い、でしょ?」
祐希子の言葉に、もう一度三人は、互いの顔を見合わせた。
「それは、まあ……」
「こんなとっちらかったノリは、抵抗ありますけど……」
「面白いといえば、面白いですね……」
「でしょ? それでいいのよ! だって──」
祐希子は、リング中央で手を大きく広げた。
カクテルライトに照らされたその姿に、何を見たのか。
三人は、祐希子から目を離すことができずに、ただ息を呑んだ。
まるで本物の天使を──女神を見たとでもいうように。
「この面白さ、この雰囲気こそが、あたしたちのいる世界!
“レッスルエンジェルス”の世界なんだからね!」 *c21
リングの天使──女神たちに、幸あれ。
|