「それじゃ、相手は龍子さんじゃなくて森嶋さんなの?」
ああ、と背後のめぐみに返した WRERAの社長だったが、実は生返事もいいところだ。
「そっか。 向こうの団体もいろいろあるのかな。
てっきり龍子さんだと思って対策練ってたんだけど」
そうだな、とこれも生返事で返した社長は、机の上に残した仕事が気になりつつも、窓の外、何の面白みもない隣のビルの明かりを、ひたすら凝視していた。
そうでもしないと、暗い窓に映っためぐみの姿に目を奪われてしまいそうなのだ。
「ゆ、結城か?」
「え?」
「お前の、その、着替え、だよ。 寮から持ってきてくれるって。 結城なのかと思ってな」
居残り練習の後、着替えを忘れたことに気付かずシャワーを浴びてしまったというめぐみ。
今は、シャワーを浴びたばかりの火照った身体に、社長の男物のシャツを羽織っているだけという姿だった。 *1a
だからジムには練習着の予備を置こうと俺は言ってたんだ、と旗揚げ当初に議論した話を頭の中で蒸し返しながら、社長は目の毒だとばかりにめぐみを視界から外し続けていた。
どうやら思春期の少年並みに純情派らしい。
「千種じゃないわ。 寮に来たばかりの新人、成瀬って子よ。
あの子、練習生契約は来月からなのに、今月から住み込んで事務仕事とかお手伝いしてるんだって? 偉いじゃない」
「まあ、その分のバイト料はこっちが払うんだがな」
「あら。 しっかりしてる子なのね」
タオルが濡れた髪を柔らかくこすり上げ、シャンプーの香りを微かに漂わせる。
それだけで、社長の顔は少し赤くなった。
思春期の少年どころか、天然記念物級らしい。
まあ、あれだ。 あいつの方がそういう意識をまったく持ってないわけだから。
俺さえしっかりしてれば何の心配もないわけだ。
しかし男として扱われてないというのが何というか悔しい気がしなくもないような。
そういえば、なんで武藤の奴は先輩や霧子くんには敬語なのに社長の俺にはタメ口なんだろう。これは一度ビシッと言ってやらねばいかんな、うん。 *2a
「社長!」
「わ!? なんだっ? ビシッとかっ?」
「……何言ってるのよ。 話、聞いてた?
あのね、今月の CM撮影、やっぱり断わってほしいの」
「えっ……CMだって?
おいおい、あの件はもう仮契約まで行って、スタジオも押さえてるんだぞ? それを……」
「ごめん。 だけど、その時間がどうしても惜しいのよ。
今度のスレイヤー無差別級防衛戦……森嶋さんが私より何枚も上なのはわかってる。
充分に対策練ったって、勝てるかどうかわからない相手ってことも。
そんな人が、団体王座を取り返さなきゃって、すごい覚悟で向かってくるのよ?
私は……負けたくない。 だから、やれるだけのことはやっておきたいの」 *3a
「…………わかった」
社長は溜息とともに首肯した。
鏡のような窓に映った、めぐみの瞳。
あの目をしためぐみに何を言っても無駄だということを、社長はもう充分すぎるほど把握してしまっている。
「先方にはこっちから事情を話して謝っておく。
この埋め合わせは……いや、お前は何も気にせず試合に集中しろ。 そして、勝って来い」
「……ありがと。 私、社長のそういうとこ好きよ」
その一言に年甲斐もなく心臓を飛び跳ねさせた時、階下のジムからと思しき呼び声が、タイミング良く事務所に響き渡った。
「せんぱぁ〜い! どこいてはるんですかあ?
新人の成瀬、あなたの成瀬が、ただいま参上しましたで〜!」 *4a
「あっ、ようやく来たわね。
──ここよっ! 上の事務所! すぐに降りてくから!」
ほーい、と陽気な声が下から返ってきたところで、めぐみは入口のドアへと向かった。
ドアを開け、今行くわ、と成瀬にもう一度呼びかけてから、社長の方にも手を振ってみせる。
「じゃあね、社長。 邪魔しちゃった私が言うのもなんだけど、残業はほどほどにね」
「ああ。 気をつけて帰れよ」
さすがに振り向いて、しかし視線はしっかりめぐみから外したまま、社長も軽く手を上げた。
めぐみが階段を降りると、しばらくはその格好にツッコミを入れまくる成瀬の声が聞こえてきたが、やがてめぐみが着替え終わったのだろう。 扉の音を小さく残して、静かになった。
「……こっちも帰るか……」
仕事は終わっておらず、明日の霧子の顔が怖い。
しかし、今日これ以上仕事を続ける気にはどうしてもなれない、WRERAの社長であった。
そして、10月の WRERA巡業第五戦、鹿児島大会。 *5a
フレイア鏡とともにスレイヤー・レスリングの威信をかけて殴りこむと、ノンタイトルながら祐希子と千里をともに得意の SSDで下すなど、ここまでの四戦で気を吐いた森嶋。 *6a
最大目的であるこの日のスレイヤー無差別級王座戦でも、彼女は当然のように王者・武藤めぐみを圧倒した。
しかし、めぐみは森嶋のファイトをよく研究していた。
過去三度も来島を仕留めている森嶋の関節技を抜け目なくロープで凌ぐと、ニーリフトで動きを止めたところにダイヤモンドカッターの一撃。
そこをすかさずラ・マヒストラルで丸め込み、得意のフライングニールキックを見せることもなく 23分17秒で勝利。 *7a
「龍子戦はフロック」「森嶋の勝ちは鉄板」とベルト奪還を疑わなかったスレイヤーのファンの願いも虚しく、WRERAの武藤めぐみがスレイヤー王座の初防衛を果たしてしまったのだった。
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