「お話があります」
食事中に、不意にかけられた声。
それが普段からよく耳にしているものだとはわかったものの、誰の声かまでは瞬時に思い浮かばなかった。
だから、格闘中だったカレー皿から顔を上げて、うずたかく積まれた空のカレー皿の向こうに見知った顔を見つけた時、マイティ祐希子はちょっと申し訳なさそうな顔をしたのだった。
「桜井ちゃんかぁ。 あはは、カレー屋さんに来るなんて珍しいじゃない。
どしたの? たまにはあたしを見習って、カレーをしこたま食べてみる気になったとか?」 *1a
「いえ。 話があるのはカレーではなく、祐希子さんです」
「あたしに話? いいけど、わざわざこんなとこで?」
「すみません。 ただ、ジムや寮よりもむしろお話ししやすいかと思ったので」
「ふうん。 ま、ここならウチの連中は来ないだろうけどさ。 みんなにはちょっと聞かせたくないお話なのかな?」
祐希子の質問に、千里は少し考え込んでから首を縦に振った。
そのまま向かいの席に座り──積まれたカレーの皿が少々邪魔だったが──祐希子に促されるまま話を切り出す。
余談になるが、WRERAの面々がこの店に来ないというのは、祐希子と鉢合わせたが最後、胃袋か財布の限界までカレーに付き合わされることを、すでに全員が身をもって知っているからだった。
「──つまりは、桜井ちゃんの持つ IWWFヘビー級王座、その挑戦者にあたしを指名したいと。 そういうことね?」
「はい。 指名なんて少しおこがましい気もしますが、間違ってはいません」
「……桜井ちゃんも知ってるよね。
あたしは NA世界王者になってから、意識して他のシングル王座を狙わないようにしてきた。
龍子みたいに命令されてるわけじゃなく──ほら、ウチの社長は甘々だからさ──、あたしはあたしなりの誇りを持ってそうしてる。
それでも、あたしに挑戦者になれっていうのは、それなりの意味があると思っていいのかな?」
「意味といえるほどの話かどうか、わかりませんが……」
「うんうん」
「私は……あなたに、勝てていません。 それだけです」
「はぁ? なにそれ、イヤミぃ?
最近は月一回くらいはシングルやって、何回も桜井ちゃんが勝ってるじゃない。
春には、市ヶ谷とのタッグであたしと恵理をボコにしたしさっ」 *2a
「そうですね」
「そうですねってね、ちょっとぉ……」
「ですが、その月の NA王座戦──タイトルを賭けたシングル対決は、私が完敗してます。
その後も、来島さんや森嶋さんとの NA王座戦を見る度、思い知りました。
タイトルマッチという大舞台での祐希子さん……その強さは、別次元だと」
千里の声は少し低く、静かだが良くとおる。
祐希子が黙ったまま続きを聞いたのは、その声に聞き惚れたからかもしれなかった。
「守るものがない強さも、守るものがある強さもある──これは祐希子さんの言葉です。
私は今でも、守るものが無いからこそ私は強くいられると思っています。
ですが、悔しいですが、ベルトを守る祐希子さんに守るものの無い私は勝てませんでした。
……だからこそ、私は知りたいんです。 守るべきものを持った私が──」
「──守るものを持たない、挑戦者としてのあたしに勝てるのか、か。
やれやれ。 ホント、桜井ちゃんのこだわりも筋金入りよね。 ちょっと呆れちゃうわよ」
「……すみません」
「あはは、頑固な割に素直な桜井ちゃんは好きよん。 でも、謝るのはあたしの方かもね。
実はさ、ちょっと龍子のこと思い出して『あたしが IWWF王座取っちゃったら返上した方がいいのかな』なーんて考えちゃってたんだ」 *3a
「…………」
「けど、そんなことで悩むのは、あんたに失礼ってもんだったわ。
だから──返事はオッケーよ。
挑戦者ってシングルじゃすっごく久しぶりだけど、あたしは元々がチャレンジャーだからね。
この祐希子サマに挑戦されても王者でいられるか。 桜井ちゃんの力、見せてもらうわよ!」 *4a
おそらく女子プロレス史上初の、カレー屋で実質的な調印を済ませたタイトルマッチ。
桜井千里とマイティ祐希子の IWWF世界ヘビー級王座戦は、1月の WRERA興行第五戦のメインイベントとしてそのゴングが鳴らされた。 *5a
「自分の力を信じて……あなたから勝利を掴み取る!」
実績や評価は祐希子が圧倒的に上。
しかし実力ではついに並んだとも噂される中で始まった二人の戦いは、意外なまでの一方的展開を見せた。
序盤の探りあいから、組んでの大技・JOサイクロンを狙いにきた祐希子を、千里が狙い済ましたハイキックで迎撃。
脳を揺らされた上に流血で動きの鈍った NA王者を、IWWF王者はローやミドル、得意の蹴り技を主体に追い込んでいく。 さらには初披露となる STFで祐希子の脚を攻め、同時に体力を搾り取った。
「油断はしません。 最後まで!」
ミドルからハイへと繋げ、崩れたところへの押さえ込みは、しかしカウント2.8。
さらに上下に蹴り分けるコンビネーションキックでも入ったカウントは2.9まで。
祐希子の粘りに観客席も沸き、それがさらに祐希子に力を与える。
「これがあたしの全身全霊! 受けてみなさい!」
今度こそ、祐希子の JOサイクロンが千里を捕らえた。
大逆転を予感して観客たちの腰が浮くも、攻められてきた脚の踏ん張りが甘かったのだろう。
千里はカウント2.5でホールドを脱出、起き上がりざまに飛燕の速度で飛び込んだ。
「この技で、あなたを仕留めてみせます!」
──最後の技は、掌底。
かつて、デビュー前の千里が祐希子との手合わせで彼女の顎を打ち抜いた技。 *6a
今この場に立つ一番最初のきっかけを作ったその技で、桜井千里は最強の挑戦者を退けたのだった。
「……あちゃあ、負けちゃった。 それも、我ながら完璧なやられっぷり。
これは 4月に向けて、そーとー気合い入れ直さないとね」
「4月、ですか?」
悔しげだがどこかサバサバした様子でリングに座り込んだ祐希子に、千里は手を差し出した。
その手を取って立ち上がると、祐希子は手を握ったままで一つウインクをして見せた。
「そ。 今月の防衛戦終わったら、次の NA王座戦は 4月の予定なの。
その挑戦者に、今度はあたしが桜井ちゃんを指名したいんだ。
……ううん、指名なんてそれこそおこがましいや。
あたしも、NA王者として桜井ちゃんに『挑戦』したいのよ。
今の実力世界一を決める戦い、その舞台でね。 ……どうかな?」
「……王者直々のご指名、断れるはずもありません。
その『挑戦』、喜んでお受けします」
「決まりね。 よーし、4月が楽しみになってきたわよっ!
それじゃ、その前にちゃちゃっと──」
突如、リング上の照明がおとされた。
即座に会場のバルコニーにスポットライトが集中すると、そこに立つ、黙っていれば絶世の美女だがどうしたって黙っていられない金髪の女性に向けて、否応無く会場中の視線が集まった。
「オーッホッホッホ!
その貧弱な胸と同様、情けないことですわ、祐希子!
無様極まりない敗北だけでもお笑い草ですのに、どうやら勝った王者に媚びでも売っている様子! おおかた、『この後のインタビューでは、あれが本当の実力じゃないはずだとか、実は接戦だったとか、そう言ってくれない?』、とでも懇願してるに違いありませんわね! オーッホッホッホ!」
ビューティ市ヶ谷劇場、突然の開幕。
観客の野次もお構いなしで市ヶ谷が自分に向けてくる嫌味と悪口と挑発の嵐に対し、今日は苦笑を浮かべるだけの反応にとどめて、祐希子は千里相手に呟いた。
「その前にちゃちゃっと、あの大馬鹿女相手にベルトを防衛してくるわね?」
翌、第六戦。
宿敵・ビューティ市ヶ谷を相手に、マイティ祐希子は十七度目の NA王座防衛を果たす。
その場で祐希子自らが発表した三ヵ月後の次期防衛戦。
その挑戦者の名前は、もはや「桜井千里」以外にはありえなかった。
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