(もう少し。あと……一撃。あと一撃で……私は……) *1
勝てる。
この、至高の王者に。
自分の強さを、証明できる。
それなのに──
身体は、動かない。
恐ろしくスローに流れる風景の中で、自分の鼓動と息遣いだけが、ただ聞こえている。
混沌とした知覚の中、天与と称される腕を振り上げて向かってくる相手が見えた。
迎え撃たなければ……そう思う、その思考だけが空しく意識の壁をこだまする。
(あと一撃。一撃で……私は……)
身体は、動かない。
恐ろしくスローに流れる風景の中で、天与と称される腕が視界を埋める。
激しい衝撃を受け、全ては暗転し、落ちていく。奈落の底へと──
「──っ!!」
目が、覚めた。
暗い視界の中、天井と、いつの間にか伸ばしていた自分の両腕が、ぼんやりと見える。
小さく時を刻む秒針の音が響く、寮の自室。ベッドの上。
桜井千里は、ゆっくりと腕を下ろして、自らの視界を閉ざした。
「あと一撃で……私は……」
──負けた。
噛みしめられた、唇。 その唇から、それ以上の言葉が洩れることは無かった……。
WRERAのリングに舞い降りた至高の女神、クリス・モーガン。
IWWF、TWWA、TWWAタッグ。
三つの世界王座を保持する三冠王者は、四つめのベルトとして祐希子の NA王座を指定。その代わりに、と提示したのは、自らの持つ TWWA王座への挑戦権だった。 *2
誰が相手でも構わない、と言い切る不遜な態度に色めき立つ選手たちから社長が挑戦者として挙げたのは、その中で最も冷静さを保っていた千里の名だった。
TWWA世界王座戦、クリス・モーガン VS 桜井千里。
8月興行の目玉とされたカードは、千里が王者モーガンにとことんまで食い下がる好勝負となったが、千里に奪い得たカウントは、惜しくも2.9まで。
最後は、“神の一撃”ポセイドンボンバーの前に、及ばず屈する結果となった。 *3
千里にとっては、市ヶ谷に敗れた先月のAAC王座戦に続く、二ヶ月連続でのベルト挑戦失敗となってしまったのである。 *4
「あ、千里さん。おはようございます!」
「おはようございます」
いつもより遅くジムに現れた千里が返した挨拶に、越後しのぶは目をしばたたかせた。
後輩ということもあり、いつもは会釈か「おはよう」までだ。
なにより、あまりに気の無い返事は、どうみても完全に条件反射的なものだった。
いつも気を張らせた先輩の意外な雰囲気に戸惑うしのぶを尻目に、千里は筋トレ用のコンビネーションマシンに座った。
いつもと変わらずテキパキと、しかし明らかに心ここにあらずという感じでウェイトを調整し、ストッパーを外す。そのままバーを握って──
「はい、ストップ。 そんな気の入れ方じゃ、怪我するわよん」
外したストッパーを元に戻した相手の顔を見て、千里はその名を声に乗せた。
「……祐希子さん」
「おはよ、桜井ちゃん。 昨日のタイトルマッチ、惜しかったね。 でもいい試合だったじゃないの」
「祐希子さんは……」
「ん?」
「祐希子さんなら……惜しかった、で……満足するんですか?」
「……そうね。 満足しないわよね」
にこっ、あるいは、にぱっ、という表現がふさわしい笑顔で、祐希子は千里を見つめた。
千里もつられて笑い──こそしなかったが、無表情を、いくぶん穏やかな表情に変える。
そのまま、問われたわけでもなしに、千里は祐希子に話を始めた。
彼女には珍しいことだ。
それを知っているからこそ、祐希子は数分間、真摯に耳を傾け続けた。
「──実力以外の、クリス・モーガンとの差、かぁ。 世界三冠王者相手にして、勝てるはずって思えただけでも、大したもんだとは思うけどね」
「祐希子さんは……」
「はいはい、満足しません。実際に勝たないとね。 ま、勝負は時の運ってのも間違いないんだけど……」
その答えでは、千里は満足しないだろう。
そうなると、祐希子に思いつく答えは一つしかなかった。それをそのまま口にする。
「……ベルトを守る者の強さ、ですか?」
「そ。──って、そんなに嫌そうな顔、しないでってば」
千里の信条、あるいは座右の銘が『守るものがないから強くいられる』であることは、祐希子も知っている。だから、祐希子はもう少し突っ込んでみることにした。 *5
「桜井ちゃんの言うことも、わかるけどね。 でも、守るものを狙われるとかじゃなければ、『守るものがあるから負けられない』なーんて考え方もあるんじゃない?」
「……私には、そうは思えないんです。 戦い以外に、勝つこと以外に、守るものがある。 だから勝てなくてもいい、そんな言い訳に使ってしまう……そう思えるんです」
「──強さって一つじゃなくていいと思うけどね。 守るものがない強さもあって、守るものがある強さもある。 両方持ってた方がお得かなー、なんてのは、どう?」
似合わないと自覚しつつ語ってみた祐希子だったが、半ば予想通りに、千里は首を横に振った。
「私は……そんなに器用にはなれません。 ……祐希子さんは、そうなんですか?」
「へ? あたし?」
「祐希子さんは、強いです。 ベルトを持っている時も、それをいともあっさり奪られて、持っていない時も」
「……びみょーに胸に刺さること、言うわねー?」 *6
「祐希子さんには、守るものが、守りたいものがあるんですか?
だから……だから、そこまで強くなれたんでしょうか?」
「うーん、守りたいものねぇ。 どうだろ。 カレー……は違うよね。
団体のみんなとか、プライドとか、もちろんベルトとか、無いわけじゃないけど。
……あえて言うなら、約束かなぁ?」
「約束……ですか?」
「ま、ちゃんとした約束じゃないんだけどね。
昔、ある人と、いつかリングの上で戦ってやるって決めたことと、その人と別のある人に、いつか世界のトップに立ってみせるって宣言しちゃったこと。
その二つを守りたくて、強くなろうとしてたところはあるかな。 わかる?」 *7
「わかるような……いえ、やっぱり、よくわかりません」
「あら、残念。 でも、桜井ちゃんには、本当に守るもの無いの? 約束は、一つある気がするんだけどな」
「え?」
「入門したときに、言ってたこと。 あたしに借りを返すって話──忘れちゃったかな?」
「…………!」 *8
翌月──9月。
マイティ祐希子 VS クリス・モーガンの NA世界無差別級王座戦は、王者マイティ祐希子が、クリス・モーガンをローリングクラッチホールドで破り、初防衛を果たした。 *9
世界三冠王者でもある“至高の王者”相手に完勝とも言えるこの試合は、祐希子の強さを際立たせるとともに、実力主義の世界王座を標榜する NA王座の価値を、世界に知らしめることになったのである。
「約束を守ろうとする強さ──か」
守ったベルトをリング上で掲げる祐希子をしばらく見つめてから、千里は小さく、しかし確かに首を横に振った。
「私にそんなものは……いらない」
そう、今は──まだ。
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