6月某日。札幌は、曇りのち晴れ。 *1
この二ヶ月でようやく慣れてきたハードなロードワークを終えて、練習生の少女が WRERAのジムに戻ってきた時のこと。
出てくる時には無人だったジムでは、一ヶ月ぶりに顔を見る二人の先輩レスラーが、私服のままで何やら話し込んでいた。
「あれ? 祐希子さんと来島さんじゃないですか。アメリカから戻ったんですね」
「やっほー! 久しぶりだね、めぐみ。 どう? 練習は慣れた? 逃げ出したりしてない?」 *2
「今のところは、何とか。
──祐希子さんたちは、二階の事務所に用ですか?
今日は社長も霧子さんも、休みのはずですけど……」
めぐみ、と呼ばれた少女の視線の先には、二つの大きなトランクがあった。
空港からここへ直行したのだろうが、海外遠征に出ていた二人が、いくらなんでも帰国したその足で練習するつもりとは思えなかった。
「あはは。 それがねえ、恵理が一刻も早く練習したいってうるさくって。 あたしは寮に帰ってゆっくりしたかったんだけどさ」
「……期待を裏切りませんね。 さすがは来島さん。 世界タッグ王者は伊達じゃないって──」
少女のセリフは途中で止まった。
あさっての方を向いていた来島が凄い勢いでこちらに振り向くや、鬼の形相で一睨みしたのだ。
その程度で気圧される少女ではなかったが、さすがに空気を読んで口をつぐむ。
「もう、恵理ったら! 練習生に八つ当たりしてどーすんのよっ。 ごめんね、めぐみ? 恵理ったら、タッグベルト奪られたこと気にしちゃってね」
「タッグベルトを……!? 祐希子さんと来島さんのタッグが、負けたんですか!?」
「そ。 ついでに、あたしのシングル王座も奪られちゃったのよん」 *3
「!」
マイティ祐希子の持つ、WWCA世界ヘビー級王座。
彼女とボンバー来島の持つ、WWCA世界タッグ王座。
WRERAが持つ二つのベルトの防衛戦を地元アメリカで行なうよう、認定団体のWWCAが要請してきたのが、一月前のこと。
提携契約切れを 7月に控えたこのタイミングでの要請をいぶかしむ声もあったが、だからといって要請に応じなければ、最悪ベルト剥奪もありえる。 *4
WRERAとしては、二人を信じて敵地へと送り出したのだったが……。
「ああ、負けちまったよ。悪かったな!
だけどよ、実力で負けたんじゃねえ!
どっちの試合も──いや、あんなの試合なんて呼べねーぜ! 俺は全然負けたと思ってないね!」
「うーん……それはあたしも否定しないけどさ。
ま、あちらさんもいろいろあるのよ。
市ヶ谷や寮長にずっと世界と世界ジュニアのベルト持たせてくれてる、AACみたいな団体の方が、珍しいのかもね」 *5
「……まあなぁ。スレイヤーでも、EWAの世界ベルト巡っていろいろあったみたいだしよ。あの上原さんとサンダー龍子も、敵地の地元判定で GWAタッグを奪られてたし……」 *6
「あの。 ちょっと、聞いていいですか?」
「ん? なんだよ、めぐみ?」
「さっきから、いろんなベルトの名前が出てきてるんですけど……『世界王者』って、そんなに何人もいるものなんですか? 細かい体重別でもないのに……」
「…………。おーい、祐希子。昔のお前みたいなのがいるぞ?」
「どういう意味よ、恵理?」
少女──武藤めぐみは、つい二ヶ月前に WRERAに入団した練習生なのだが、社長にスカウトされるまでプロレスなど見たこともなかった、という経歴の持ち主だった。
かつての祐希子も、入団するまでプロレスには興味がなく、知識も皆無。
プロレス通の来島から毎日のように基礎知識を教えられた、という過去を持っていた。
「まあ、王座ってのは各団体の認定制だからよ。ボクシングとかもそれは同じなんだろーが、プロレスの方がメジャー団体の数が多いからな。 その分、世界王座の数も多いってことさ」
団体が認定した王座だから、他団体に流出すると面白くないし、立場も無い。だからこそ、いろいろ条件を課したり、コントロールしようとしたり、場合によっては返還を強要したりもする──それは来島の私見と私怨も入った話だったが、この世界では事実無根とは言い切れないことも確かだった。 *7
「統一王座、なんて構想も時々出るみたいだけどな。市ヶ谷のやつもほざいてたことがあったし。ただ、選手はともかく、統一しても団体にはいいこと無いからよ。なかなか実現しねえのさ」
「以上、プロレスマニアの来島恵理さんによる、世界王座についての解説でした。わかったかな、めぐみちゃん?」
「……大体は。 勉強になりました。 ──でも、おかしなものですね」
「? 何がだよ?」
「王者──チャンピオンって、誰かに認められるものじゃないのに。
ただ、一番強い人……それこそがチャンピオンじゃないのかな……って」
素人の素朴な感想ですけどね、と付け足したところで話を終えると、めぐみは軽く頭を下げてから更衣室へと向かった。汗の粘つきが気になってきたらしい。
トランクからトレーニングウェアを取り出した来島も、後を追うように更衣室へと消えていく。
──その場に一人残された祐希子は、夕飯のメニューを気にするような気軽な口調で呟いた。
「ただ、一番強い人……か」
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